気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

『御義口伝』は『注法華経』と併せて読まれなければならない。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は創価学会信者さんの多くが好きな『御義口伝』についてです。
実は『御義口伝』が後世の偽作でしかないことは、このブログで度々指摘しています。
 
大石寺写本『御義口伝』の改竄」
 
「『御義口伝』における『科註』の『補註』への改竄」
 
「『御義口伝』が偽書である理由を列挙してみる」
 
「『御義口伝』の信憑性の低さ」
 
「『御義口伝』末文の削除」
 
「「弘安元年正月一日」という日付は存在しない」
 
「『御義口伝』から離れること」
 
「日興が残した写本に富士門流系の相伝書は一つも存在しない」
 
「八品派と細草檀林」
 
 
今回は上記記事の中で「『御義口伝』末文の削除」(https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2021/11/07/000000)で書いたことをもう少し詳しく書いてみようかと思います。
上記記事で書いたように創価学会版御書全集では『御義口伝』最後の末文が何の説明もなく改竄・削除されています。
『御義口伝』中「法とは上行所伝の題目なり」以下、創価学会が削除した部分を全文挙げて紹介してみます。ちなみに出典は浅井要麟編『日蓮聖人遺文全集』(平楽寺書店、1934年)より、2-2541〜2542ページです。ちなみに私が所有しているものは平成5年の第16刷になります。
 
「六老僧の所望に依て老後たりと雖も、日蓮が本意の一端、講談せしめ畢んぬ。是れ併しながら私集最要文を読誦せしむる所なり。然る間法華一部の諸要文尽く付し畢んぬ。此の意は或は文を隠して義を取り、或は義を隠して文を取り、或は文義共に顕し、或は文義共に隠して講談するなり。委しくは注法華経を見らる可きなり。然りと雖も文義甚だ深遠なる間、愚昧に及ぶ可からざるなり。広宣流布の要法豈に此の注法華経に過ぎんや。
御義口伝巻下畢
      日蓮 花押
 
本伝に云く、御義口伝と云ふ事、何れも高祖の御義なり。御流なる間、口伝と云ふなり。本末文師等の疏釈其の外見合せ、御義を以て法門を荘厳し奉る可きなり。初心の行者の及ぶ可からざる法門なり。此は注法華経を置かせ給ひて、六老僧の為に身延山に於て御談有るなり。此の已然甲州の日春日法の所望に依て御談有りき。提婆品の時、蛇来りて聴聞せり。八歳の龍女なりと仰せらる。此の書授与の末代の亀鏡は此の御法門なり。其の時の執筆日興なり云云。
弘安元年戊寅正月一日
      執筆日興 花押
      六老僧  花押」
 
(『御義口伝』より、浅井要麟編『日蓮聖人遺文全集』2-2541〜2542ページ、平楽寺書店、1934年)

 
いかがでしょうか? ここで強調されているのは、『御義口伝』があくまでも私集最要文たる『注法華経』の説明である(※注記1)と言う点です。つまりこの『御義口伝』を読むなら併せて『注法華経』を読まなければならないということになります。
事実、この文中にはきちんと『御義口伝』と併せて『注法華経』も読むべきであることが書かれています。具体的には委しくは注法華経を見らるべきなり」「広宣流布の要法豈に此の注法華経に過ぎんや」「此は注法華経を置かせ給ひて、六老僧の為に身延山に於て御談有るなりと明確に書かれているのです。
ではそれにもかかわらず、なぜ創価学会信者たちは何一つ『注法華経』を読みもせず、知りもせず、引用さえ何一つしないのでしょうか?
私はこういうところに、御書を大切にせず、偽書ばかりを扱っては遺文を都合良く改竄する、創価学会大石寺系信徒の悪質さが良く現れていると考えています。
 
※注記1
『注法華経』が日蓮の「私集最要文」であるということは、日蓮の遺言を記した日興による『宗祖御遷化記録』(日興真蹟)に明確に書かれています。きちんと『御遷化記録』には御遺言云」「私集最要文名注法華経と書いてあるのです。

 
「『御遷化記録』の遺言は釈迦立像と注法華経