気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日蓮遺文に根拠がない「福運」。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて以前、私は、創価学会という教団内で多用される「福運」という語が、日蓮遺文や経典からその根拠が全く見出されないことを述べました。
 
「「福運」について」
 
「福運の用例も出典もわからない」
 
 
日蓮遺文に全く見出されない「福運」の語ですが、それにもかかわらず創価学会では多用され指導の折に用いられます。
確かに教団がどんな教義を使おうが自由なのですが、それがあたかも仏教由来の語であるかのように信じ込まされ、「福運」が普通に信徒間の会話や指導で用いられているのは奇妙なことであると私は思います。
 
この「福運」という語、日蓮遺文に用例は全くありません。仏典にも用いられません。事実Web版新纂浄土宗大辞典にも「福運」という項目さえ存在しません。それなのに戸田城聖会長時代から池田大作の時代にまで普通に多用されます。しかも創価学会は教義がどんどん変わるにもかかわらず、なぜかこの「福運」だけは現在でも普通に用いられているのです。
 
例えば昭和40年代でももう普通に池田大作氏は指導で「福運」の語を用いていました。
 
「福運は幸福になっていくべき源泉です。いくら、お金をためようとしても、福運のない人はすぐなくなってしまうものです。
福運のある人は、しぜんに、心も豊かに、生活も豊かになっていくものです。この世で、いま福運を積んでいける道は、妙法の信心しか絶対にありません。
現在福運のある人でも、妙法に反対すれば、そのときから、福運は消えてしまうものです。
一般的に、福運のある人でも、このように乱れた社会では、福運は、どんどん消えるばかりで、積んでいくことはできないのです。」
池田大作『指導集』189〜190ページ、聖教新聞社、昭和42年)

 
冗長になるので途中で切りますが、気になる方は画像で続きをご覧ください。読んでおわかりかと思いますが、ここには根拠とすべき日蓮の御書など一つも引用されていません。日蓮遺文に存在しない語ですからできないのが当たり前なのですが、池田氏自ら何ら仏典に依拠した語でないことを露呈してしまっているのです。つまり「福運」という語は日蓮の教義ではなく、単に教団内で多用されて常習化された言葉に過ぎず、それをあたかも普遍的な仏教用語であるかのように教団・信徒内の指導や会話で使っているだけのことなのです。
この語は池田大作が後年になっても用いられますし、現在の創価学会信者さんの間でも普通に会話に使われると思います。実際本部幹部会のスピーチでも「頑張っている人を、たたえればたたえるほど、自身にも組織にも「福運」と「勢い」がつく。」(第68回本部幹部会・池田大作スピーチ、1993年7月7日、『池田大作全集』第83巻65ページ)と言われています。また『新・人間革命』でも使われていた筈ですし、今の組織内でも信徒間で話される意味とさして変わらないと思います。
 
この語、由来はわからないのですが、戸田城聖も用いていました。戸田城聖著の小説『人間革命』ではそのままの「福運」という章があり、戸田城聖役の主人公「巌さん」がセリフ中で普通に使っています。
 
「『福運がきた! 福運がきたよ! いよいよ、あなたも一人前になる。これを冥益というんだ。妙楽の……末法の初め冥利なきにあらず……という言葉を、よくよく味わいたまえ、はッ! はッ! はッ! これは愉快だ!』」
戸田城聖[妙悟空]『人間革命』197ページ、精文館書店、昭和32年

 
ここでも「福運」の語の由来は何ら仏典から示されていません。
戸田城聖の『人間革命』の出版は昭和32年(1957年)です。つまり戸田城聖の時代から創価学会信者は「福運」の語を何の根拠もなく仏教由来の教義と信じ込まされており、その説明も日蓮遺文からの引用も何も知らされないまま今日まで続いているのが実態なのでしょう。
不思議なことですが、この「福運」の語、現在の日蓮正宗の一部の法華講信者の間でも用いられているようです。これは現在の法華講信者に創価学会退会者が少なからずいまして、彼らの使っていた「福運」という言葉が信徒間に飛び火して逆輸入されたのかと個人的に推測しています。いずれにせよ日蓮遺文には存在しない語に過ぎません。
 
 
 
追記
ちなみに顕正会の前身、妙信講の講頭・浅井甚兵衛氏も昭和40年の正本堂建立供養に際して「我が身の福運」と言っていました。