気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

大阪事件で池田大作が逮捕された日は7月3日ではない。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
さて創価学会の公式に認める歴史に「大阪事件」と言うものがあります。
これは昭和32年(1957年)4月に参議院大阪地方区の補欠選挙があり、創価学会陣営がタバコを使って有権者を買収したとして数十名の創価学会信徒が逮捕された事件です。
この中で、最高幹部も逮捕され、創価学会の小泉隆理事長、そして池田大作参謀室長も逮捕されることになります。

 
上に載せた画像は創価学会の公式ホームページのものですが、ここでは明確に昭和32年7月3日に池田大作氏が逮捕されたことが述べられています。この「7月3日」という日付は、かつて戸田城聖氏が出獄した日付と同じで、創価学会はこれをもってして戸田城聖池田大作の師弟の絆、「出獄と入獄の日に師弟あり」とする淵源としています。
 
ところが、これが実は単なる創作で、事実は池田大作氏が逮捕されたのは同年の「7月3日」ではなく「7月4日」だったのです。
以下の画像は、この大阪事件を報じた『聖教新聞昭和32年7月7日付のものですが、ここでは明確に「続いて四日には池田参謀室長を逮捕した」と書かれているのです。

 
これはなぜでしょう。
創価学会というところは、信徒に教団の正統性をアピールする時に日付や数字の符合をとても大事にします。つまり池田大作氏の逮捕を戸田城聖氏との殉難の絆と印象づけるために日付の改竄が行われた可能性が高いと言うことになります。
 
「『創価教育学体系』第1巻初版発行の日付」
 
「大阪支部の布教数「11,111世帯」は事実の改竄である」
 
追記1
かつての創価学会は組織で軍隊風の役職を用いていました。池田大作氏の当時の役職も「参謀室長」でしたが、現在の創価学会はその事実さえも曖昧にしています。ブログ内で引用した記事から見ても明らかなことですが、池田大作氏の当時の役職名は明確に「青年室長」ではなく「参謀室長」です。
 
追記2
今回の記事を書くにあたり、読者の方から当時の聖教新聞の貴重な画像、情報等を提供頂きました。本当にありがとうございます。
 
 

 

日蓮は末法の本仏ではない。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今日は日蓮本仏説のお話の続きです。
日蓮佐渡以降、生涯にわたって、釈迦を本仏と捉えていたことは諸抄からも明らかなことです。『南条兵衛七郎殿御書』(真蹟:京都本隆寺現存)には「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏に・かぎりたてまつる」と明確に書かれています。
 
釈尊を本仏とする文証」
 
ところが、そんなことを言うと、反論してくる創価学会日蓮正宗系の信者さんがいます。
日蓮大聖人は『開目抄』で「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師)父母なり」と書かれているのだから、三徳を備えた本仏は末法では日蓮大聖人しかいないのではないか」という反論です。
 
答えを先に言ってしまうと、日蓮自身に主師親の三徳が備わると述べたのは、法華経を信じることで釈迦の三徳の一分が備わると考えていたことを示しており、別に日蓮が殊更に釈迦を越える本仏であったということを主張しているのではないのです。
 
「釈迦如来のたましい我が身に入り」
 
上記のブログ記事を読めばわかるかと思いますが、実際『撰時抄』では「仏の御使として」と述べつつも「日蓮は当帝の父母・念仏者・禅衆・真言師等が師範なり又主君なり」(創価学会旧版御書全集265ページ)と述べていまして、「仏の御使」と「主師親の三徳が備わる」ことが併記して書かれています。つまり日蓮法華経を信じて行ずる故に「三徳の一分を備えた」「釈迦如来の御使い」という二つの立場であることを認めているのです。
 
他にも『四条金吾殿女房御返事』(真蹟:京都恵光寺、丹後妙圓寺)では「法華経を持たせ給う人は一切衆生のしう(主)とこそ仏は御らん候らめ」(同1134ページ)と説かれています。

つまり「主師親」の三徳は法華経の行者全てにその一分が備わると言うことを日蓮が認めていただけのことで、日蓮はそれだからと言って別に自身を「釈迦を超える末法の本仏」などと見做していたことはありません。少なくとも日蓮真蹟からはそのような文脈を読み取ることはできないでしょう。
 
 
また日蓮の弟子である日興も『三時弘経次第』(日興真蹟不存、古写本は上条大石寺に現存)で、末法の富士山に立つべき「本門寺」の本仏を「久成釈迦仏」とし、日蓮を「付属弟子・上行菩薩日蓮聖人」と述べているのです。そして釈迦仏の垂迹神天照大神八幡大菩薩とされています(『日興上人全集』287ページ、興風談所、平成8年)。日蓮を本仏とすることなど、どこにも書かれていません。日蓮のみならず日興にも「日蓮本仏説」は存在しないのです。

日興の『三時弘経次第』に沿うなら、末法において建立されるべき「本門寺」はその本仏を「久成釈迦仏」とし、その垂迹神を「天照大神」「八幡大菩薩」とし、付属の弟子を「上行菩薩」「日蓮聖人」としなければならないことになります。
そもそも日興の『三時弘経次第』は大石寺法主の国家諫暁の際に必ず『申状』に添えられてきたものです。それを否定するなら、大石寺の歴史の否定になります。
 
大石寺歴代法主の国家諫暁に『三時弘経次第』は添付されている」
 

 

教主釈尊より大事なる行者とは。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
 
さて私はこのブログで、創価学会日蓮正宗等、大石寺系教団の「日蓮本仏説」を批判しています。
 
釈尊を本仏とする文証」
 
「久成釈迦仏と付属の弟子」
 
「『種種御振舞御書』の改竄」
 
「久遠の釈迦の使い」
 
日蓮本仏説は後世の創作に過ぎない」
 
日蓮本仏説の萌芽」
 
「『一代五時鶏図』に示された釈迦仏の三徳」
 
「『御遷化記録』の遺言は釈迦立像と注法華経
 
「御本尊の手」
 
大石寺4世日道は、日蓮を本仏と考えていない」
 
大石寺の本仏説の変遷」
 
ところで、今日取り上げて考えてみたいのは、日蓮の『下山御消息』(真蹟は京都本圀寺他に散在)にある次の一文です。
 
「教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち」
日蓮『下山御消息』創価学会旧版御書全集363ページ)

 
日蓮正宗系や一部の古くの創価系の信徒らは、この文章を持ってきて「日蓮が自身を『教主釈尊より大事な行者』と呼んでいるのだから、日蓮は釈迦を超える末法の御本仏なのだ」と主張します。
噴飯ものの解釈なのですが、実はこの文はそういう意味ではありません。この「より」は古語で接続の意味を表す格助詞で「起点」や「〜から」等の出発点や経由の意味を表します。
すなわちここでの「教主釈尊より大事なる行者」というのは「教主釈尊から大事にされる行者」もしくは「教主釈尊から大事を授かった如来の使いとしての行者」というくらいの意味なのです。
事実、『下山御消息』には日蓮が自身を「主君の御使いなり」「経に云く『即如来の使なり』」(同355ページ)と書かれています。日蓮が自身を「釈迦の使い」と書いてあるのに、なぜ「日蓮が釈迦を超える仏」になってしまうのでしょう。
 
 
「それでも『より』には比較の意味があるはずだ」という反論もあるでしょう。
しかしそれは違います。現代の日本語では「より」のみで比較の意味を表しますが、古語では「よりも」や「よりは」と一つ言葉を加えて比較の意味として用いることが多いのです。古語辞典で「より」を引いてみるとわかります。「より」のみではそのほとんどは起点の意味になるのです。
例えば『更級日記』には「東路の道の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人」とありますが、ここでは「より」ではなく「よりも」と書かれています。そして明確に比較の意味で用いられています。
 
実際に日蓮の遺文から比較の意味で用いられている例を具体的に示してみましょう。「より」ではなく「よりも」「よりは」として使われることが多いことが確認できるかと思います。数字は全て創価学会旧版御書全集のページ数です。
 
 
法華経よりも弥陀の名号は」(2)
「第一の俗衆の毀よりも第二の邪智の比丘の毀は」(7)
「国王は臣下よりも人をたすくる人」(9)
法華経の余行よりも易きにこそと」(10)
「彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(24)
「善導・法然一切経・並に法華経をばおのれよりも見たりなんどの疑ひ」(114)
法華経大日経等よりも劣るか」(123)
「正像二千年の大王よりも後世ををもはん人人は」(260)
「父母・宿世の敵よりもいたくにくみ」(266)
「これよりも百千万億倍・信じがたき」(279)
「悪王悪臣よりも外道魔王よりも破戒の僧侶よりも、持戒有智の大僧の中に大謗法の人あるべし」(292)
「四味三教よりも円教は機を摂し」(339)
法華経誹謗の者は大地微塵よりもおほかるべし」(362)
「大地の微塵よりも多く」(440)
「爪上の土よりも少し」(440)
「一切の悪縁よりは悪知識を・をそるべし」(453)
「主君の恩の深き事・汝よりも能くしれり」(493)
「一眼の亀の浮木に遇うよりも難し」(494)
「骨は山よりも高けれども」(494)
「多生恩愛の涙は海よりも深けれども」(494)
「人間・閻浮の習は露よりも・あやうく芭蕉よりも・もろく泡沫よりもあだなり」(496)
「大地微塵よりも多く」(507)
「国王・大臣よりも末法の非人は」(512)
「犬・野干よりも・わろきようを」(556)
「権宗の大智よりも百千万倍勝れたる」(733)
「命根よりも惜き事なり」(749)
 
 
……多岐に渡るので、この辺で止めておきますが、ほとんどの場合「より」を比較の意味で用いる時は「よりも」または「よりは」として使われることが多いことがお分かり頂けたかと思います。それに当該の『下山御消息』でもきちんと「法華経誹謗の者は大地微塵よりもおほかるべし」と明確に「よりも」を用いています。同じ遺文の中で「よりも」と「より」を使い分けていますので、「教主釈尊より大事なる行者」は「日蓮が釈迦を超える末法の本仏」と言う意味で用いたのではないことになるでしょう。もし日蓮がそれを言うなら「教主釈尊よりも大事なる行者」と書かなければならない筈です。
 
 
 
追記
比較の意味で「より」が「よりも」や「よりは」にならずに、単独で使われている例は確かに存在はします。例えば『法華真言勝劣事』(真蹟不存)には「大日経阿含経より劣るか」(123)や「法華経大日経より劣の義存すべし」(127)などです。しかしながら900箇所以上の文例を一つ一つ見てみましたが、「より」のみで比較の意味として使われている例は圧倒的に少なく、そのほとんどが上に挙げたように「よりも」「よりは」になります。
 
 
 

 

白木家を入信させたのは原島家である。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は池田大作氏の夫人である池田香峯子、その実家、白木家と原島家の関係についてです。
 
池田香峯子(旧名:白木かね)は主婦の友社編著で『香峯子抄』(主婦の友社、平成17年)に自身のインタビューをまとめた本を出版していますが、自身の両親が入信した経緯を実は隠しているのです。
具体的に見てみましょう。

上の画像は同『香峯子抄』21ページのものですが、白木かねの母親が静脈炎という病気で苦しんでおり、ここで池田香峯子は「それで、隣の家の方が、母の体を心配して、入会を勧めてくださったのです。」と述べています。
実はこの時、白木家を入信させたのは、かつての創価学会の最高幹部の一人だった原島宏治原島嵩、原島昭の父)と、その妻・原島セイだったのです。
 
以下に原島昭(原島嵩氏の兄、元東洋学術研究所研究員)氏の証言を載せてみます。
 
「東京都大田区多摩川下流の六郷川のほとりに矢口渡があり、私は、幼少の頃、両親と共にこの町に住んでおりました。
昭和13年、私の二つ違いの弟・嵩が生まれ、私が3歳、弟が1歳を過ぎた頃、母(セイ)が、創価学会を通じて日蓮正宗に入信しました。その翌年には、父(編集室注=後の創価学会理事長・原島宏治氏)も母に説得されて入信しました。
入信してからの両親の布教活動は、子供の眼から見ても驚くべきもので、蒲田支部の基礎を作っていったのです。
さて、私の家の裏木戸をくぐると、そこは白木家の裏庭で、その家には私より三つほど年上の女の子がいて、名を「かね」といいました。その「かね」さんが、後に池田大作夫人となりました。
私の両親の折伏によって、この白木家の人々が皆、入信しました。昭和15、6年のことです。同じ頃、父の紹介で、教員仲間の小泉隆氏(創価学会最高顧問)、小泉氏の紹介で辻武寿氏(元公明党委員長)らが次々と入信しました。
さらに辻さんが、蒲田の糀谷に住む三宅家を折伏しました。そして昭和22年になり、この三宅家の次女・淑子さんに連れられて初めて座談会場に来たのが、まだ若かりし頃の池田大作でした。」
原島昭『池田大作原島家』21〜22ページ、人間の科学新社、2014年)

「この、かね改め香峯子さんは、今から5年ほど前、『主婦の友』社から『香峯子抄』という本を出しましたが、それには私の母の名は消されて、代わりに「隣の家の方が、母の体を心配して、入会を勧めてくださったのです」と記してあります。
「母の体を心配して」とあるのは、当時、かねさんの母・静子さんが静脈炎という難病に罹っていたことをいいます。静子さんは、それまで8年間も静脈炎で苦しんでいたそうです。しかし、入信後、しばらくして、その難病が完治するという功徳を受けたのです。
夫の白木薫次さんは、昭和37年6月14日付の『聖教』紙に次のような感謝の言葉を述べています。
「私の福運の一つは蒲田の自宅の隣が、戦前、原島理事長宅であったことです」と。『聖教』紙は当時の状況を解説して、
「当時、蒲田方面で座談会があると、たいてい白木さん宅が会場になった。牧口先生もしばしば見えられた。そして一年早く入信していた原島さん、小泉隆さん、辻武寿さんの蒲田の三羽ガラスといわれた人たちがいつも白木さんのまわりにいて、白木さんの信心を守っていた」
と記しています。」
(同128ページ)

これを見てわかるように、白木家を入信に導いたのは、当時の原島宏治氏とその妻の原島セイだったということです。しかしながら池田香峯子氏は『香峯子抄』において頑ななまでに、その事実を隠そうとしているように見えます。
なぜ白木家が原島家によって入信した事実を隠そうとするのか、その動機が不明瞭ですが(そもそも原島昭氏の証言を読む限り、白木薫次氏ら白木家と原島宏治らは強い信仰の関係で結ばれていたことが伺えます)、少なくともここで池田香峯子氏、あるいは主婦の友社編集室は原島宏治氏らの功績を隠そうとしているように、私の目には映ります。
 
 
 

 

 

ノリエガ氏は大石寺をかつて訪問していた。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さてこのブログでは池田大作氏がパナマの「麻薬王」と称された犯罪者、ノリエガ将軍と友好的な関係を結んでいたことを何度か記事にしています。
 
池田氏とノリエガ氏との交友。」
 
創価学会年表に記録されたノリエガ氏との会見。」
 
池田大作氏とノリエガ氏との会見。」
 
 
どの記事を見ても、パナマの「麻薬王」と称された、マヌエル・アントニオ・ノリエガ氏が池田大作氏と友好的な関係を結んでいたことがおわかりになると思います。池田大作氏は昭和62年2月にノリエガ将軍のパナマ政府から同国最高位の「バスコ・ヌニエスデ・バルボア勲章」も受賞していますが、まるで事実を誤魔化すように今では創価学会本部もこのことは全く報道しなくなりました。
 
さてそんなノリエガ将軍ですが、1974年の来日時、なんと創価学会池田大作会長(当時)と会見するばかりか、日蓮正宗の総本山・大石寺を訪れているのです。
以下がその画像で、『聖教グラフ』昭和49年(1974年)11月19日号のものです。

 

1974年10月28日、午後8時頃、パナマのマヌエル・アントニオ・ノリエガ氏は10月28日、NSAパナマ本部長のヒロコ・デ・チュー氏、同本部顧問のアウレリオ・チュー・ジ氏夫妻とともに聖教新聞社を訪れ、池田大作会長と会見を行いました。
その翌々日、10月30日にノリエガ氏はNSAパナマ本部長らの案内で、総本山大石寺を訪れています。写真の奥に映っているのは間違いなくかつての正本堂です。
 
 
つまり池田大作氏がパナマのノリエガ氏と会見し、その交流関係を大切にしたと同時に、当時は大石寺もまたそれを応援し、ノリエガ氏が境内を見学することも許していたことになります。
私はノリエガ氏が正本堂で「御開扉」まで受けていたとは正直思えませんが、仮に受けていたとするなら、ノリエガ氏は日蓮正宗の信徒だったということになるでしょう。
 
 
 
 

 

日寛は佐渡以降の本尊を「二千二百三十余年」としている。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて私は日蓮曼荼羅本尊の図顕讃文の「二千二百三十余年」について、いくつか記事を書いています。
 
「「二十余年」と「三十余年」」
 
「『三師御伝土代』と戒壇本尊との矛盾」
 
「興門流の各文書に見る戒壇本尊への疑義」
 
「阿部日開氏の「二千二百二十余年」」
 
 
創価学会で授与されている大石寺26世日寛本尊では「二千二百丗余年」と書かれています。「丗」は「三十」の異体字です。
ちなみに大石寺開山の日興の書写本尊は全て「二千二百三十(丗)余年」で書かれています。日興書写本尊には「二千二百二十余年」と書かれたものは存在しません。
これは戒壇本尊に書かれた「二千二百二十余年」と矛盾します。戒壇本尊では明確に「二千二百二十余年」と書かれているのです。以下は柳澤宏道『石山本尊の研究』(はちす文庫、平成9年)収録の戒壇本尊の座配図です。

 
ところで、大石寺教学を決定づけたと言われる、26世堅樹院日寛も、なぜか明確に「二千二百三十余年」説を採っているのです。以下の画像は日寛の『妙法曼荼羅供養抄談義』(『富士宗学要集』10-75ページ)ですが、ここでも明確に「弘安二年より三十余年なり、御本尊を遊ばすに付て佐渡已後の義あり」と明確に述べています。

 
日寛が言うように「御本尊書写には佐渡以降の特別な義」があるとするなら、弘安2年造立説の戒壇本尊は「二千二百三十余年」と書かれなければならない筈です。事実、日興書写本尊に「二十余年」と書かれたものは一体も存在しないのです。
 
 
とするなら、戒壇本尊は大石寺歴代法主の主張と矛盾する本尊であり、戒壇本尊こそまさに偽作されたものであるということになるかと思います。
 
 
 
 
 

 

『冒険少年』と『ルビー』は「姉妹誌」だった。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて以前に戸田城聖の出版会社、日本正学館では大衆娯楽雑誌として『ルビー』を出版していました。内容は官能的な娯楽小説等、かなり際どい内容の大衆誌だったのです。
 
戸田城聖は出版業で雑誌『ルビー』も出していた。」
 
内容として半裸の女性の絵が挿入され、テーマは「恋愛と避妊」や「未亡人と性」だったり、創作読切のタイトルが「女体鱗光」や「人肌地獄」だったりと、もはや"ポルノ雑誌"と称しても良いほどの内容です。
 
 
ところで、このことを話題にすると創価学会信徒さんから反発されることがあります。
池田大作先生が出版に携わったのは『冒険少年』であり、『ルビー』の内容は預かり知らないところだった」という反論です。
ところが『冒険少年』も『ルビー』も奥付に記された発行元は別会社とされているのに、なぜか編集部の所在地は当時の創価学会本部・日本正学館と同じ「千代田区西神田二の三」になっているのです。
 
しかも昭和20年代当時の創価学会本部「千代田区西神田二の三」の神田の建物は3階建てとはいえ、間口2間ほどの狭い構造で、1階は事務所、2階が4畳半と6畳と8畳の和室の3部屋が創価学会本部であり、その一部が編集室です。中2階と3階(屋根裏)は別の出版社に貸していたのです。
そんな狭い中で、皆が『冒険少年』『ルビー』『大白蓮華』の編集をしていました。これではさすがに池田大作氏が『ルビー』の内容を全く知らなかったということは常識に考えてあり得ないでしょう。
 
加えて上記ブログ記事で画像を紹介した『ルビー』の昭和24年10月号ではなんと『冒険少年』の広告を『ルビー』に出しているのです。

画像を見ておわかりの通り「本誌姉妹誌-面白く為になる-"冒険少年"改題『少年日本』新発展10月号」と明確に書かれています。
つまり『冒険少年』の編集長であった池田大作氏はポルノ雑誌とも言うべき『ルビー』に『冒険少年』の宣伝広告を載せ、あろうことか『ルビー』と『冒険少年』(少年日本)が「姉妹誌」であると認識していたことになります。
 
 
 
参考文献
原島昭『池田大作原島家』人間の科学新社、2014年