気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

中道改革連合1043万票の内訳。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて本年2月8日に投開票された第51回衆議院選挙で、与党を離れた公明党は立憲民主党との新党結成を決断。急遽、衆議院議員で合流した「中道改革連合」として選挙戦を戦い、比例区で1043万票を獲得。旧公明党系立候補者は全て小選挙区から撤退して比例上位候補で優遇されたため、比例単独候補全28人の公明党出身者が全員当選。その一方で重複立候補者の比例復活当選を妨げる形になり、立憲民主党系候補者が多く小選挙区で落選することになりました。
 
ところで私が気になったのは、この「1043万」という比例区得票数のあまりの「少なさ」です。2024年の衆院選で公明党は596万票、2025年の参院選では521万票を獲得しています。支持母体の創価学会自体が高齢化、衰退していたとしても、少なくとも400万〜500万態度の基礎票が見込まれるでしょう。
そこで2009年以降の民主党系の比例区得票数と公明党の得票数を併記し、その後でその内訳を考えてみたいと思います。
 
 
 
立憲民主党系と公明党の比例区得票数
 

2009衆議院

民主党2984万、公明党805万(政権交代)

2010年参議院

民主党1845万、公明党763万
2012衆議院
民主党926万、公明党711万
2013参議院
民主党713万、公明党756万
2014衆議院
民主党977万、公明党731万
2016参議院
民進党1175万、公明党757万
2017衆議院
立憲民主党1108万、公明党697万
2019参議院
立憲民主党731万、公明党653万
2021衆議院
立憲民主党1149万、公明党711万
2022参議院
立憲民主党677万、公明党618万
2024衆議院
立憲民主党1156万、公明党596万
2025参議院
立憲民主党739万、公明党521万
2026衆議院
中道改革連合1043万
 
 
2024年の公明党は596万票、2025年は521万票で推移していますから、ここから『日本経済新聞』では公明党の比例区得票数を500万〜550万で推移していたと推計していました(「公明・学会票は1選挙区9000〜2.5万 日経試算、新党と自民が争奪」『日本経済新聞』2026年1月17日)。
また『朝日新聞』の出口調査によるなら「前年の参院選で公明党に投票した層」の73%が2026年2月の衆院選で中道改革連合に投票したと回答しています(片山一樹「やっぱり高市首相の戦略は正しかった…創価学会票を当てにしたのに「小選挙区で一人負け」立憲議員の大誤算」『PRESIDENT Online』2026年2月9日、18:00)。
加えて一部報道では新党結成に対する抵抗感から、約2〜3割の創価学会票が他党(自民党や国民民主党他)に流出、あるいは棄権に回ったと考えられています。
仮に創価学会の現時点の基礎票が「550万票」であると考えて、そのうちの20%の票が流出したとすると「440万票」になります。
旧民主党系の過去最低得票数が600万〜700万票程度ですから(2022年参議院が677万票、2025年参議院が739万票)、そうなると計算が合います。
 
推計するに、2026年衆院選における旧立憲民主党系の比例区得票数は「600万票」前後であり、創価学会票は「440万票」程度だったことになるでしょう。
公明党は1972年の衆院選での選挙区得票数合計が「440万票」ですから、今回の中道改革連合での創価学会票数は昭和47年の水準にまで衰退してしまったことが推察できると思います。
 
 
「中道改革連合の比例区得票数について」https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2026/02/11/075726
 
 
 
 

 

「一機一縁の本尊」という教義はどうするのか。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回も引き続き、創価学会の本尊の問題について書いてみたいと思います。今回は日蓮正宗が述べている「一機一縁の本尊」の教義についてです。
 
 
これについては、花野充道氏の「日蓮正宗教学の特質--正信会と創価学会の新教学創作の試み--」(『宗教研究』89巻別冊所収、81〜83ページ、日本宗教学会、2016年)がコンパクトにまとめられていますので、ここから引用してみたいと思います。
 
「日蓮正宗教学(大石寺二十六世日寛の教学)は、本門戒壇の大御本尊(大石寺所蔵の板曼荼羅)を一大秘法と称し、そこから三大秘法と六大秘法の開合を論じている。いずれの教団であれ、日蓮を宗祖と仰ぐ以上、日蓮が図顕した本尊を拝むのは当然であるのに、日蓮正宗だけは日蓮図顕の本尊ではなく、大石寺歴代法主が書写した本尊を拝んでいる。日蓮の本尊より歴代法主の本尊をありがたがって拝む理由は、(一)本門戒壇の大御本尊以外は「一機一縁の本尊」(日蓮が当時の僧俗のために個々に図顕された本尊)であるから、現在のわれわれには御利益がない、(二)戒壇本尊は「一閻浮提総与の本尊」(日蓮が末法の一切衆生のために図顕された本尊)であるから、この本尊の力用によってのみ成仏が叶う、という教義に基づいている。しかし現実には、この本尊は大石寺に参詣しなければ拝めないので、日常的には歴代の法主がこの本尊を書写して信徒に授与し、信徒は歴代法主の本尊を通して、その「本体」である戒壇本尊を拝むという論理構造となっている。創価学会ではこのことを「本体」に対する「分身散体の義」と称していた。したがって、日蓮正宗から分派した正信会や創価学会にとって、最大の悩みはこの本尊問題であった。(中略)
日蓮正宗から分派した以上、日寛教学を否定せざるをえない事情は同じであるが、正信会の新教学が「日蓮正宗の伝統教義に立ち還る」という大義を掲げたのに対して、創価学会の新教学は、「宗祖日蓮自身の教説に基づき、世界宗教としての論理を構築する」という方向性を示している。「御書(日蓮遺文)には、弘安二年の本尊(戒壇本尊)が出世の本懐であるとか、この本尊を根本とせよ、とかの説示はない」という創価学会の論理は、他の日蓮教団の主張と全く同じである。それでは御書(『報恩抄』)に、「本門の教主釈尊を本尊とすべし」という説示がある以上、日寛教学の日蓮本仏説を捨棄して、本門の釈尊を本仏=本尊とする新教義に移行するのか、という問題が生ずるであろう。また日蓮自身の教学と、弟子日興の教学と、二十六世日寛の教学とを立て分けて考えると、あらゆる文献の真偽考証が重要な課題となることは言うまでもない。しかしそのような考察は、所詮、各人の主観(主体的な研究)を出ないから、正信会の場合と同じように、「ただ今、各人が教団教義を研究中(創作中)」ということになってしまう。私はこれを「教団教義の液状化」と称しているが、創価学会はかつて日蓮宗に対して「宗教として最も大事な教義と本尊が確定していない」と攻撃していただけに、今度はその批判が我が身に降りかかってくることを覚悟しなければならないだろう。」
(花野充道「日蓮正宗教学の特質--正信会と創価学会の新教学創作の試み」『宗教研究』第89巻別冊所収、82〜83ページ、日本宗教学会、2016年、下線はブログ筆者による)

つまり日蓮正宗が述べている「一機一縁の本尊」とは戒壇本尊以外の全ての日蓮真蹟本尊を指し、それらは日蓮が当時の個別の僧俗に図顕したものなのでそれらを拝んでも功徳はなく、大石寺にある根本本尊である「戒壇本尊」を拝まなければ功徳はないと言うことを意味しているのです。そしてその日蓮正宗の「一機一縁」という教義を踏襲し、日蓮宗を攻撃・批判していたのは創価学会そのものだったのです。
 
ですから、現在の創価学会が大石寺26世日寛書写本尊や64世日昇書写本尊を拝むのは、ある意味ではそれまでの日蓮正宗教義を踏襲しているだけなのです。つまり現在の創価学会は日蓮正宗から破門されながら、その実、教義的に自立できていないことになります。
仮に創価学会が「宗祖日蓮の説示に基づき、世界宗教としての論理を構築する」ことを目標としているのだとするなら、まず第一にすべきことは「一機一縁の本尊」という教義を過信して他宗派、特に日蓮宗を批判した過去を公式に身延山日蓮宗に対し謝罪し、「一機一縁」の教義が「間違い」であったことをはっきりと認めることなのです。
 
将来的に創価学会が何らかの方法で日蓮真蹟本尊を入手し、それを自分たちが正統な教団として信徒に頒布することになることがあったとしても、日蓮正宗時代の教義も正式に否定しておらず、日蓮宗を攻撃してきた過去も精算していないならば社会的な理解は得られないでしょう。そもそもそのような真摯な反省や謝罪が教団自体にないからこそ、他教団から完全に信頼され得ないのだと言うことを創価学会は強く反省し、認識すべきなのだと思います。
 
 
 
 

 

戒壇本尊は本来、御宝蔵に秘蔵されるべきものである。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて先日、正本堂の意義について、池田大作と大石寺66世細井日達との見解の齟齬について少し書いてみました。
 
「池田大作は当初、正本堂と本門戒壇堂とは別のものと考えていた」https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2026/07/18/100915
 
この齟齬がなぜ存在したのかと言えば、実は大石寺の信徒ならわかることなのですが、本来「戒壇の大御本尊様」とは御宝蔵の奥深くに秘蔵してあるもので、広宣流布の日に初めてお披露目するものを特別に信徒として「内拝」を許され、「御開扉」を受けるという形を取ってきたからです。
つまり大石寺の本来の教義で言うなら、戒壇本尊は宝蔵に秘蔵しておくべきもので、公開すべきものではないということなのです。
 
創価学会の機関誌『大白蓮華』昭和38年4月号(143号)に「御宝蔵と不開門」という記事がありましたので、少し紹介してみましょう(読み易さの弁のために漢数字を一部アラビア数字に改めて表記しています)。
 
「朝日門をくぐると、右手、今は大客殿の工事で見えませんが、小高い杉木立のなかに御宝蔵があります。
間口四間(7.27メートル)奥ゆき五間(9.09メートル)の銅上覆(うわぶき)の土蔵造りで、これは寛正6年(498年前)第9代日有上人により、小校(こあぜ)式に建てられたのがはじめで、後、寛政3年、37代日元上人が再建され、文久2年、52代日霑上人が石垣を築かれ、さらに明治6年、日伝上人によって銅の上覆がされ、空壕が廻らされて、現在の様式になったものです。
前の玉垣は、昭和6年、大聖人の六百五十遠忌の時に60代日開上人によって造られたもので、御宝蔵にいっそうの森厳【ママ】さを添えております。
まず、高い石段を上っていくと、格子の門があり、それを押し開いて、石畳の道を進むと、御宝蔵の正面に達します。
内部は30畳敷の広間が中央にあり、両脇が塔中席で、200名も入るといっぱいになります。
中央が祭壇で、その前方両脇に大きな檜の丸柱が立っております。
奉安殿が建立されるまでは、本門戒壇の大御本尊様をはじめ、最初仏様、御生骨等を御安置し、ここにおいて御開扉が行われたものです。
本来、大御本尊様へのお目通りは、広宣流布の暁、国立の戒壇堂が建立されてこそ許されるものなのですが、私たち学会員は、広宣流布の闘士として、特別に御内拝として御開扉を受けさせていただいているのです。
大御本尊様に限っておシキミがあげてないのは、そのためで「時を待つべきのみ」とおおせられた広宣流布の時を待って、御宝蔵の奥深く納められているのですが、御内拝とはいえ、急速に発展する学会の登山会により、御宝蔵を大きくする必要ができたところから、戒壇堂の建立されるまでと、戸田城聖先生を中心とした創価学会員の手により、奉安殿が建てられたのであります。」
(「総本山をめぐって④御宝蔵と不開門」『大白蓮華』143号所収、同84〜85ページ、昭和38年4月)

これを読んでおわかりのように、大石寺では戒壇本尊への「お目通り」は広宣流布の日に戒壇堂が建立された時に初めて許されるもので、それまでは信徒は「内拝」という形で拝むことを許される形をとっていたのです。
 
さて戒壇本尊が歴史的にどこに安置されていたのかを日蓮正宗発刊の『富士年表』も対照しつつ確認してみます。
 
 
寛正6年(1465年)2月
9世日有が小校倉造の「御宝蔵」を建立。ここに当時、偽作された戒壇本尊が安置される。
 
寛永9年(1632年)11月15日
18世日精が願主となり、敬台院日詔の寄進により御影堂を建立。『御影堂棟札』によれば日精は御影堂を「本門戒旦本堂」と呼称しており、この時、日蓮御影の背後に戒壇本尊が安置される。
 
延宝7年(1679年)2月13日
江戸下谷常在寺に隠居していた18世日精は日蓮真蹟本尊を板模刻し、御影堂に安置する。この際、戒壇本尊は再び御宝蔵に遷座、安置される。
 
昭和30年(1955年)11月23日
創価学会は信徒数の急増から、大石寺に「奉安殿」を建立寄進。戒壇本尊は御宝蔵から奉安殿に遷座、安置される。
 
 
 
本来、宝蔵に深く秘蔵しておくべき戒壇本尊ですが、寺内の都合で2度ほど宝蔵から出ることになります。一つが大石寺18世日精と敬台院による御影堂(本門戒旦本堂)建立、そしてもう一つが昭和の創価学会の出現による御開扉の信徒数の急増であったと言うことになります。
ここで指摘したいのは、創価学会の出現により、御開扉の人数が急増する中、御宝蔵の広さでは対応し切れなくなった結果、創価学会からの申し出と建立寄進によって結果的に戒壇本尊が宝蔵から出ることになったということであり、本来の大石寺の教義では戒壇本尊は「御宝蔵」に秘蔵するものであったと言うことです。事実、18世日精でさえも御影堂を「本門戒旦本堂」としながら、後年に日蓮模刻本尊を建立して御影堂に安置し、戒壇本尊を宝蔵に戻しているのです。
 
とするなら、創価学会を破門した現在、大石寺は「奉安堂」を新たに建立し、信徒への御開扉を続けていますが、本来ならもう一度御宝蔵に戒壇本尊は遷座されるべきなのです。創価学会の都合で外に出されたものが戒壇本尊で、それを追認で認めて来たのが当時の管長の細井日達と阿部日顕なのですから。
確かに「奉安堂」は蔵の形をしており、阿部日顕が正本堂を解体し、奉安堂に戒壇本尊を遷座する際に以前の大石寺教義との整合性に配慮した跡は感じますが、そもそも御宝蔵から戒壇本尊を引っ張り出すきっかけになったのは、創価学会の出現と信徒数の急増による創価学会側の自己都合に過ぎません。
 
つまり大石寺は、自分たちの都合で教義を平気で歪曲し、その都度その都度で信徒に適当な説明をして誤魔化してきたということになります。事実、本尊義の説明にしても、9世日有は日蓮本尊説をとっていますし、18世日精も日蓮御影本尊を認めて御影堂を「本門戒旦本堂」とまでしています。大石寺には歴史的に形成された戒壇本尊と日蓮本尊説とが同居しており、だからこそ旧来の根檀家の信徒さんは未だに曼荼羅の前に日蓮御影を祀る形式を用いているのです。
 
とは言え、今後、創価学会と同様に大石寺も信徒の高齢化と更なる信徒数の減少に見舞われます。御開扉の人数も次第次第に減っていくと思われますので、いずれ戒壇本尊も御宝蔵に遷座せざるを得なくなるでしょう。現在の奉安堂はその規模の大きさから維持費も大変な額になることが予想されますから、より小さい「蔵」に戒壇本尊を遷座していくことが宗門の今後の財政的負担を軽減することになる筈です。
 
 
 
 
 
追記
 
18世日精が御影堂を「本門戒旦本堂」と呼んだことは以下の記事をご覧ください。
 
「御影堂は「本門戒壇本堂」?」
 
9世日有が日蓮本尊説をとっていたことはこちらに少し書いてみました。
 
 
 
 
 

 

褒賞の大曼荼羅について。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて現在の創価学会は、教団の根本本尊を大石寺の戒壇本尊から変更し、現在は大石寺64世管長の水谷日昇氏書写の「創価学会常住本尊」としました。創価学会は2014年11月8日の聖教新聞での発表で大石寺の戒壇本尊を「受持の対象にはしない」という見解を発表したのです。
 
「創価学会常住本尊について」https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2026/07/19/065243
 
「戒壇本尊を拝まない教団が戒壇本尊の意義が書写された本尊を拝み続ける矛盾」https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2025/11/30/000000
 
これには教団なりの理由もあり、このブログでも何度も指摘しているように、要は「戒壇本尊」それ自体が鎌倉時代の造立ではなく、後世の創作でしかないことが明確になってしまい、恐らくは創価学会首脳部もそのことに気づいてしまった、そしてその上で宗創紛争、大石寺からの破門・分別を経て、改めて根本本尊の確立に必要上迫られてしまったというのがあるのかと思います。
 
ところで、創価学会信徒の各家庭には、既に大石寺26世日寛の書写本尊の複写が安置されています。それなら日寛の本尊でいい筈なのですが、教団はあくまで大石寺64世水谷日昇書写の「創価学会常住本尊」を「大誓堂」の根本本尊としています。実際、2013年11月6日の聖教新聞では池田大作氏は最高幹部らとともに「創価学会常住本尊」の「大誓堂」での入仏式を取り行ったことが報じられています。
 
「池田大作と原田稔は対立していない」https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2018/02/07/000000
 
創価学会としては、大石寺がないと「御開扉」を受けることができません。「御開扉」とは大石寺の「戒壇本尊」に直接お目通りをして、勤行唱題をすることで、その根本本尊としての「戒壇本尊」への「お目通り」、つまり「御開扉」が当時の日蓮正宗創価学会信徒にとって非常に重要な宗教的行為、エートスであったのです。
 
ところが、その戒壇本尊が存在しない、信徒がお目通りしたいと思わせるような日蓮真蹟本尊等を創価学会という教団は所有していません。
消去法で、創価学会常住本尊が最もその価値に相応しいと判断し、教団はそれを信濃町総本部の根本本尊としたかったのでしょう。
それを示すように始まったのが、「広宣流布誓願勤行会」です。これは各地方組織に配布される入場券制で、信徒たちが信濃町総本部大誓堂に集まり、「創価学会常住本尊」に勤行唱題をするというものです。
 
創価学会本部の最高幹部たちは、これを大石寺の「御開扉」の代用として信徒に供したかった思惑もあったのかと思います。つまり大石寺ではなく東京の信濃町自体を聖地化し、そこに集まることで宗教的な感興や団結力、新たな教団としてのエートスを在家中心で確立したかったのかもしれません。一時は順調にその流れもいっていたように思います。
 
ところが、これがあまり会員信徒に継続的な評価を生み出しませんでした。実際、数年前にコロナ禍というのもあり、大きな会合を持てなかったこともあって、次第に会員信徒の興味も減っていきます。もちろん熱心な信徒の方は数年に一度、「誓願勤行会」に参加したくて参加するのですが、熱心な方でない場合は別に一度行けば十分で、日蓮や日興の由緒ある真蹟本尊を拝める訳でもありません。池田大作氏の音声と一緒に勤行唱題も可能ですが、当の池田氏は既に亡くなられています。亡くなった故人の生前の音声に合わせて勤行唱題して、大石寺の64世書写本尊を拝むことに、かつての古参の信徒たちは「御開扉」のような感覚を持ちにくくなっているんですね。
 
私がまだ子どもの頃ですが、家庭的に何か問題があると母とよく「またお山に行きたいね」「お山で御開扉受けて頑張ろうね」とか、そんなことを語り合っていたものです。宿命転換の戦いと称して、信徒が勤行唱題の実践や布教活動とともに重要視していたのは、当時は明らかに「大石寺への登山」「正本堂での御開扉」だったのです。
今の信徒たちが果たしてあの頃の大石寺の「御開扉」のような感覚で、信濃町総本部大誓堂に勤行をしにいくものでしょうか? 私は明らかに違うと思います。確かに本山の権威は去って、もっとカジュアルにさらりと行けるものになったのかもしれませんが、重要な儀式に参加するという感覚は消え去ったということです。
 
創価学会が今後、根本本尊を変えることは可能性として十分にあり得ることです(ところで、創価学会はかつて他宗派を本尊雑乱として批判していたのですから、自己矛盾になります)。ところが、実際のところ、大石寺64世水谷日昇書写本尊しかないというのが本音なのでしょう。八王子の東京牧口記念会館には一時的にこの創価学会常住本尊の紙の原本が安置されていましたが、今は取り外されています。板模刻は信濃町大誓堂にありますが、紙原本は創価学会本部として秘匿、あるいは特殊な場所で保管しているのでしょう。
 
大石寺64世水谷日昇書写の「創価学会常住本尊」から、変更される可能性がありそうな本尊として考えられるのは、67世阿部日顕から池田大作氏に贈られた「褒賞の大曼荼羅」があります。
この「褒賞の大曼荼羅」とは、1982年(昭和57年)10月12日、正本堂建立10周年の記念総登山において、池田大作が阿部日顕にお目通りの際、全日蓮正宗信徒、全創価学会員を代表して広宣流布の功績を賞されて贈られた大本尊です。以下の画像は『大白蓮華』昭和57年(1982年)11月号(382号)で、12ページ及び15ページのものになります。

 
この本尊は、一時期、創価学会本部内の師弟会館に秘蔵され、最高幹部たちや一部の信徒たちに特別に拝観させるなど、特別な本尊だったようですが、現在ではほとんど語られません。
創価学会で由緒ある特別な本尊と言えば、創価学会常住本尊を別にすれば、この「褒賞の大曼荼羅」くらいしかないのではないかと私個人は思いますが、これが総本部に祀られないのは、当然ながら「阿部日顕から贈られた本尊」だからでしょう。
創価学会は第2次宗創紛争で、創価学会寄りだった筈の阿部日顕氏を敵に回しました。現在、代替わりされ68世早瀬日如の代になってからも創価学会は大石寺宗門を「日顕宗」とする蔑称を未だに用いてさえいます。言わば創価学会は自ら相手を貶めるつもりが、自らに両刃の剣で返ってきてしまい、「褒賞の大曼荼羅」のことさえ公式に一つも発言できなくなってしまったのでしょう。
 
今後、信徒が高齢化し、当時の記憶が薄れかけてきた頃にタイミングを合わせて「褒賞の大曼荼羅」を根本本尊として世に出す好機を創価学会本部が計っている可能性もあります。曼荼羅表面に書かれた「日顕」の名を削って世に出すことさえ彼らは辞さないかもしれません。しかしながら「褒賞の大曼荼羅」は明らかに阿部日顕から池田大作に全信徒を代表して贈られたものであり、その歴史的事実を歪曲されないためにも、ここで改めて記事としてそのことを記録しておきたいと思います。
 
 
 
追記
 
昭和57年10月12日に阿部日顕から贈られた「褒賞の大曼荼羅」は師弟会館に秘蔵された後、池田大作氏のはからいで多くの幹部や信徒が拝することができたようです。私は当時まだ子どもでしたからわかりませんでしたが、もし読者の中で拝観されたことがある方がいたら情報等、教えて頂けたらありがたいです。またこの「褒賞の大曼荼羅」について、その相貌がどのようなものであるのか、筆者は未見のため全くわかりません。
 
 

 

伊勢湾台風について。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
今回は昭和34年9月26日、日本に上陸し、紀伊半島また伊勢湾沿岸等に甚大な被害をもたらした「伊勢湾台風」について、書いてみます。
 
実は当時の創価学会は、伊勢神宮を「邪宗教」と決めつけ、台風の被害を「諸天の治罰」としていたのです。具体的に見てみましょう。
以下の画像は、創価学会の機関誌『大白蓮華』第102号(昭和34年11月号)より、口絵写真の2ページ及び3ページのものになります。

3ページには「諸天の鉄槌下る伊勢神宮」と題して以下のように書かれています。
 
「今年も台風は、一瞬にして、四千余の尊い人命をうばいさった。
この悲惨なわが国の現状!しかし、その不幸なる日本国の状態をなげくまえに、一切不幸の根源は邪宗教にあり、三災七難のよってきたるところは邪宗教にあり、との「立正安国論」にのべられた、日蓮大聖人様の御精神をしるものが、いまのわが国に数少なきことをなげかざるをえない。
そして、この伊勢湾台風は、戦時中、軍部とけったくして、牧口・戸田両先生を迫害した、天照大神をまつる伊勢神宮にも、治罰をくわえていったのである。」
(『大白蓮華』102号、口絵3ページ、昭和34年11月)
 
これにとどまらず、同35ページには臼井俊子(女子学生部常任幹事)が「風水害の大惨事に思う」と題して以下のような記事を書いてさえいます。
 
「いま、ここにかかる災害をうけるという宿命は、過去に正法を誹謗したという原因にほかならず、一国謗法の故に国土が、衆生の謗法の故に民衆が、あの悲惨な姿となったのでございます。」
(臼井俊子「風水害の大惨事に思う」、同『大白蓮華』35ページ)

 
 
当時の創価学会が他宗派を「邪宗教」呼ばわりし、伊勢神宮を牧口常三郎・戸田城聖を迫害した宗派として伊勢湾台風を伊勢神宮という宗教のせいにするのは、社会的な常識からも当然受け入れられるものではありません。しかし当時の創価学会はこのように他宗派を「邪宗教」と罵って攻撃することが普通だったのです。
 
現在の創価学会は、やはり過去の過ちを素直に認めて他宗派に公式に謝罪をすべきであると私は思います。「過去にあったことだから」と過去を誤魔化すのは誤りです。過去が誤りなら、正直に誤りを認めて謝罪をする、そういったことをしていないからこそ、現在の教団が社会的にカルトと見られ、批判される原因なのだと私は思います。当然ながらこれらの邪宗教呼ばわりを容認してきた日蓮正宗も同罪だと思います。
 
 
 
 

 

創価学会常住本尊について。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
さて今回は現在、信濃町の大誓堂に安置されている「創価学会常住本尊」について、少し思うことを書いてみたいと思います。
この御本尊は現在、創価学会の根本本尊として、板に模刻され、大誓堂に安置されています。
 
この曼荼羅本尊は本来、日蓮や日興書写の本尊でさえなく、大石寺64世の水谷日昇書写本尊です。創価学会の各家庭に頒布されている本尊は26世堅樹日寛書写本尊ですから、各家庭頒布の本尊の方が歴史は古いのです。
 
以下に写真を載せてみます。以前のブログ記事でこの写真は柳澤宏道『石山本尊の研究』(はちす文庫、平成9年)で転載されたものを紹介していましたが、今回、ブログ読者からの史料提供があり、原本の『大白蓮華』81号(昭和33年2月号)に載る、より鮮明な画像が入手できましたので、紹介してみます。以下は昭和33年1月1日、創価学会本部での元旦勤行会の折の「創価学会常住本尊」になります。当然のことながら、この時は紙の原本であり、まだ板に模刻される以前のものになります。

以下に相貌部分を拡大してみますが、やはり大きくすると画像は荒くなるので、具体的な相貌については先述の柳澤宏道氏の『石山本尊の研究』(前掲書、101ページ)から紹介してみましょう。

 
現在の創価学会本部はこの「創価学会常住本尊」を根本として拝んでいることになりますが、そうすると過去の教義とは矛盾が生じます。それらは以前にこのブログでも紹介しているところですが、それらを整理しながら主に2点について書いてみます。
 
 
1、戒壇本尊を受持しない教団が戒壇本尊を根本とする宗門の本尊を拝む矛盾
 
これについては以下の記事に書きました。
 
「戒壇本尊を拝まない教団が戒壇本尊の意義が書写された本尊を拝み続ける矛盾」https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2025/11/30/000000
 
詳しくはお読み頂ければよいのですが、要は日蓮正宗にあっては日蓮真蹟本尊の写しを信徒に拝ませることをしていないのです。大石寺にあっては戒壇本尊だけが日蓮の根本本尊であり、戒壇本尊を拝まなければ成仏できないとしています。しかしそれでは遠方に住む信徒は成仏できないことになるので、大石寺歴代管長が戒壇本尊の「内証」を本尊として書写し、それを複写、開眼して信徒に頒布することで戒壇本尊の利益が信徒に行き届くようにするという説明をするのです。
相貌画像解析を見て頂ければわかるように、本尊下部やや左には「日昇」の花押の横に「奉書写之」と書かれており、これを大石寺では「戒壇本尊を書写し奉った」と解釈するのです。事実、創価学会頒布の日寛本尊にも「奉書写之」は書かれています。
つまり創価学会が日昇書写本尊を拝む限り、それはあくまで大石寺教義における「戒壇本尊の写し」を拝んでいることと同義なのであって、宗門の教義に実質的には従属していることになってしまいます。
 
2、水谷日昇は果たして創価学会常住本尊を書写する人物として適格性を有するのか。
 
 
大石寺64世水谷日昇については以下に書きました。
 
「大石寺64世、水谷日昇のこと」https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2021/08/31/000000
 
以下の画像が大石寺64世水谷日昇になります。

 
水谷日昇は、そもそも戸田城聖と創価学会青年部による小笠原慈聞氏の糾弾事件、いわゆる「狸祭り事件」を重く見て、戸田城聖を宗会の全会一致により登山停止、大講頭罷免、謝罪文提出をさせた人物です。
 
 
狸祭り事件による小笠原慈聞氏の吊し上げ行為は社会的に容認され得ない吊し上げ事件と私は考えますが、問題は創価学会にこの時に同調せず、戸田城聖を批判した人物の書写本尊を創価学会は根本本尊として拝んでよいのか?という問題です。
水谷日昇が創価学会にとって、また宗史にとって特別な功績があるというのならまだわかりますが、現在の創価学会はそもそも64世水谷日昇を殊更に持ち上げて評価していません。私の知る限り、池田大作の小説『人間革命』第2巻で、その登座について短く評価しただけであり、創価学会が大きく取り上げて評価した大石寺歴代は26世日寛、59世堀日亨くらいではないでしょうか?
 
結論として、戒壇本尊を受持の対象としない教団が「奉書写之」と戒壇本尊の内証を書写した本尊教義を受け入れて、しかもその本尊を書写した本人は戸田城聖を登山停止にし、大講頭を罷免した人物であるということになります。しかも創価学会本部はこの「創価学会常住本尊」が大石寺64世水谷日昇書写本尊であることを現在の信徒に明確に知らせていません。そのような信徒に正しい情報を示さない態度も信徒に対して不誠実であると、私個人は思います。
 
 
 
 
 

 

池田大作は当初、正本堂と本門戒壇堂とは別のものと考えていた。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
さて今回はかつて大石寺に存在していた、正本堂の意義付けについてです。
 
弘安2年造立説の大石寺蔵、いわゆる戒壇本尊は後世の偽作でしかないのですが、これを日蓮真蹟とし、大石寺は長らく根本本尊として拝んできています。事実、日蓮正宗宗規でも戒壇本尊は「帰命依止」の本尊と定められています。
この戒壇本尊は大石寺宝蔵からかつての奉安殿に収蔵されていました。
池田大作は会長に就任直後、大石寺に大客殿の建立寄進を宣言。それが終わった後、戸田城聖の遺言として大石寺に「正本堂」を建立することを主張します。
 
ところが、この時、池田大作氏は「正本堂」は、将来に広宣流布が達成された時にできる「本門戒壇堂」とは別の建物になると考えていたのです。
具体的に池田大作本人の発言から見てみましょう。会長就任後、池田大作氏の口から初めて「正本堂の建立寄進」が述べられるのは昭和39年5月3日、日大講堂における本部総会での会長講演においてです。池田大作氏はこう述べています。
 
「その第一番目は、この七年間において、総本山、日達上人猊下に正本堂を建立、ご寄進申し上げたいということであります。(中略)
恩師戸田先生が、大客殿の建立が終わったならば、ひきつづいて、すぐに正本堂の建立をしなさい、すなわち、世界の建築の粋を集めて、一閻浮提総与の大御本尊様をご安置申し上げる正本堂を建立しなさいとの遺言がございました。」
(池田大作・会長講演「第六の鐘を鳴らそう」昭和39年5月3日、日大講堂にて、『大白蓮華』昭和39年7月号(158号)所収、11ページ、創価学会)

 
ここで池田大作が正本堂の建立を述べていることがわかりますが、この節の終わりで実は次のように彼は発言しています。
 
「正本堂の建立は、事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。したがって、あとは本門戒壇堂の建立だけを待つばかりになります。したがって、全体的な御供養といたしましては、今度の正本堂の御供養だけで、いっさい将来はいたしません。」
(同『大白蓮華』12ページ)

 
池田大作氏は確かに正本堂に「一閻浮提総与の大御本尊様をご安置申し上げる」と述べているので、正本堂に安置するべき本尊を戒壇本尊と考えていたことは推測できます。
しかし上記発言からもわかるように、池田大作氏は将来、広宣流布が達成された際に出来上がる「本門戒壇堂」は「正本堂」とは別のものだと当初は考えていたのです。
 
ところが、これが昭和40年2月16日、大石寺大講堂で行われた第一回正本堂建設委員会において、大石寺66世細井日達氏本人から「正本堂が将来、事実上の本門戒壇になる」旨の説法があり、変わるようになります。
 
「さらに二月十六日、日蓮大聖人御生誕の佳日、総本山において第一回正本堂建設委員会が開かれ、席上、日達上人猊下から正本堂の重大、かつ甚深なる意義についての御説法があったのである。
すなわち、
「正本堂につきましては、一番大事な問題は、どの御本尊をそこに安置申し上げるかということです。大聖人仰せの根本である戒壇建立とは、広宣流布への偉大なる御相伝でございます。これについて、一般の見解では、本門寺の中に戒壇堂を設けることであると言っているが、これは間違いであります。堂宇の中に一つに、戒壇堂を設けるとか、或いは、大きな寺院の中の一つに戒壇堂を設けるというのは、小乗教等の戒律です。小乗や迹門の戒壇では、そうでありましたが、末法の戒律は受持即持戒であり、御本尊のおわします本堂がそのまま戒壇であります。したがって、本門寺建立の時は、戒壇の御本尊は特別な戒壇堂ではなく、本堂に御安置申し上げるべきであります。それゆえ、百六箇抄に『三箇の秘法建立の勝地は、富士山本門寺本堂なり』と大聖人のお言葉がはっきり御相伝あそばされています。また同じ百六箇抄の付文に『日興嫡々相承の曼荼羅を以て、本堂の正本尊と為す可きなり』と、こう明らかにされておるのでございます」と。」
(池田大作・巻頭言「正本堂建立御供養について」『大白蓮華』昭和40年10月号(173号)所収、13ページ)

 
読んでおわかりのように、細井日達は本門寺の中に戒壇堂を設けること間違いとしています。さらに細井日達は大きな寺院の中の一つに戒壇堂を設けるというのは、小乗教等の戒律」「御本尊のおわします本堂がそのまま戒壇」「本門寺建立の時は、戒壇の御本尊は特別な戒壇堂ではなく、本堂に御安置申し上げるべきでありますとまで述べており、池田大作氏の当初の考えとは異なる戒壇観をここで披瀝したことになります。
 
 
つまり時系列で表すと次のようになります。
 
①昭和39年5月3日、日大講堂の本部総会で、池田大作は正本堂建立を述べ、将来の戒壇堂とは別であるが、正本堂を建設する旨を会員に述べた。
 
②ところが、昭和40年2月16日、大石寺大講堂において第1回正本堂建設委員会が開かれ、この席上、細井日達が「正本堂が実質的に将来的に戒壇堂になる」趣旨の説法をした。
 
③これを受けて創価学会は、未来の実質的な戒壇建立になるということをアピールし、355億円の供養を集めた。
 
 
つまり正本堂が戒壇堂になるということは本来、池田大作ではなく、大石寺宗門・細井日達が言い出したことなのです。
阿部日顕の代になり、正本堂は解体され、戒壇本尊は新しく建立された「奉安堂」に移されました。
では細井日達が述べた「本堂」はどうなるのでしょう。奉安堂はあくまで「蔵」であり(実際、全体に蔵の形でデザインされています)、いわゆる「本堂」ではないと思います。
正本堂はたとえ本堂であっても内拝の形をとり、御開扉として信徒に戒壇本尊を拝ませていました。また内拝のために正本堂にはおしきみを置かないことになっていました。
細井日達が言ったことが間違いで、もう一度「蔵」に戒壇本尊を蔵して完全な内拝の形をとるというなら、現在の宗門の教義と細井日達の説法とで整合性が合わなくなります。私にはそう言ったことを富士門流が曖昧にして誤魔化してきた気がしてなりません。
また創価学会は細井日達の説法に乗っかって355億円の供養を集め、正本堂を建立しておきながら、後年に戒壇本尊を受持の対象から外しました。それならなぜ戒壇本尊に繋がる大石寺歴代の書写本尊(26世日寛書写本尊、64世日昇書写本尊板模刻)を信徒に拝ませているのでしょう。
今までやってきたことを変えるのは自由ですが、過去が間違っていたのならきちんと訂正して謝罪すべきです。現在が間違いなら、直ちに過去の教義に戻すべきです。創価学会や日蓮正宗というところは、そう言った過去を誤魔化して曖昧にする教団なのだということです。