気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

『新池御書』は偽書である。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回の記事はTwitterで話題になった、『新池御書』の偽書説についてです。
創価学会日蓮正宗の信者さんの好きな御書の一つで、彼らはよくこの御書を読んでいます。
冒頭の「うれしきかな末法流布に生れあへる我等・かなしきかな今度此の経を信ぜざる人人」もよく読まれますし、「南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば天然と三十二相八十種好を備うるなり」など有名です。
 
 
ところが、『新池御書』は偽書の可能性の非常に高い遺文です。
まず基本的なことですが、『新池御書』には日蓮真蹟が存在しません。また六老僧やその門下の古写本が存在しません。身延曽存でさえありません。『新池御書』はそもそも録外初出で室町時代以降、突如出現した遺文でしかないのです。
 
 
加えて『新池御書』は弘安3年と文末に書かれていますが、文中には何と弘安4年に建立が始まった「円覚寺」のことが書かれているのです。

『新池御書』には「建長寺円覚寺の僧共作法戒文を破ることは大山の頽れたるが如く・威儀の放埓なることは猿に似たり」(創価学会旧版御書全集1442ページ)とあり、あたかも弘安3年の時点で既に円覚寺に堂宇もあり僧侶もいて、当時既に運営されていたかのように描かれています。しかし円覚寺本体は開山を弘安5年としているのです。

 
 
弘安3年にまだ工事も始まっておらず、存在していない円覚寺に僧侶がいるはずがありません。日蓮がまだ存在していない寺の僧侶を批判する筈がありません。
したがって『新池御書』は非常に偽書の可能性が高い遺文になります。
 
加えてTwitter情報では建長寺円覚寺は14世紀に入ってから、官寺として公認され、両寺を並称して書くようになった可能性があるとのことでした。
それなら「建長寺円覚寺」と並称して書く『新池御書』の偽書としての成立は14世紀以降になるでしょう。
 
 
 

 

本来の釈迦の教説とは。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
創価学会日蓮正宗は「成仏」という語を使います。「成仏」「即身成仏」することが仏教の究極で、創価学会はそれを「人間革命」とかよくわからない別の言葉に置き換えて設定するのがやたら好きです。
けれど私は別に成仏などしなくてよいと思っています。
 
 
「成仏などしなくてもいい」
 
 
『スッタニパータ』で「ブッダ」は「目覚めた人」のことで、四聖諦を悟り、一切の認識が六処と十二因縁でしかないことに気づいた人が「目覚めた人」すなわち「ブッダ」になります。
 
 
「普通の人間としてのブッダ
 
 
なぜ殊更に「四聖諦に目覚めること」を「ブッダ性」にまで拡大解釈して、「仏性」を人間性の尊厳の根幹にまで引き上げるのか、私には理解できません。
別に仏教を無理矢理に解釈しなくても人間性の尊厳は語れるでしょうし、そもそも初期仏典におけるブッダは普通の人でしかないのです。
仏性とか生命の尊厳とかを説いたものが仏教なのではありません。四聖諦と六処と十二因縁を説いて執着から離れることを説いたのが仏教です。
 
 
そんなわけで、私は成仏しなくても全く困らないですし、成仏することが人生の目的だとは全く思いません。
成仏する必要などありません。そんなことを釈迦は説いていません。
 
 
それが大乗仏教以降になると、釈迦の直説ではない仏典が数多く創作され、永遠の仏、永遠の釈迦等が強調されるようになります。大乗仏教諸派が数多くの仏典を創作したことは釈迦を永遠化する意図があり、そこに悪意はなく、彼らにはある種、崇高な使命感さえあったのだろうと思います。
ところが、釈迦の永遠化、陀羅尼の読誦等によって、徐々に本来の釈迦の教説は見失われていきます。天台智顗は漢訳仏典の字面から、勝手に経典の創作年代を釈迦在世の時代に当て嵌めるという、今の文献学的知見から見れば評価に値しない教判を設定します。それが五時八教判と呼ばれるものです。
 
 
例えば法華経序品に「無量義処三昧」と言う語があるので、法華経の前には無量義経が説かれた筈だとか、そういう按配です。字面だけで創作年代を釈迦在世の時代に当て嵌めていく手法は今では通用しないでしょう。
ところが、日本は中国仏教の影響をもろに受けてしまいました。鎌倉仏教と呼ばれるものも、当時の時代背景と密接に結びついている気はしますが、比叡山の教義は天台智顗の教理下にあり、日蓮も少なからずその影響を受けました。だからこそ日蓮は薬王品以降を捃拾扱い(落穂拾い、付録扱い)にしたり、神力品を無理矢理に上行付嘱の別付嘱としたりするのです。
 
 
そもそも教判というものは、自身で仏教を説くものが必ず個々に設定するものです。空海の『秘蔵宝鑰』や『十住心論』では天台法華経の立場は第8住心で、華厳経がその上の第9住心、秘密荘厳心の密教が第10住心になります。
 
 
後世の歴史によって拡大され、変容した仏教を私たちは漢訳仏典として読むことができるでしょう。
でもそれは果たして本当に釈迦の教説と呼べるのでしょうか?
個々の信仰者が自身で知見を深め、求めていく心を起こすのが正しい信仰のあり方であると私は考えています。
何か特別な本尊を持ったから、幸せになれるとか、特別な相伝から離れたから仏罰がおりる等の考えは仏教とは到底言えないと私は思います。
 
 

 

『御義口伝』が偽書である理由を列挙してみる。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は『御義口伝』が後世の偽作でしかない証拠を列挙してみたいと思います。
『御義口伝』は日蓮系伝統宗派からはほぼ偽書確定と考えられています。
そこで、未だに『御義口伝』に深い思想性があると勘違いしている創価法華講系信徒さんのために、いかに『御義口伝』が矛盾だらけの著作か、その理由を挙げてみましょう。
 
 
・『御義口伝』最古の写本は天文8年(1539年)、八品派の日隆門流、日経の写本が最古であり、何と日蓮滅後257年が最古である。
 
・『御義口伝』の日蓮日興や上古の時代の写本は全く存在しない。
 
・『御義口伝』の大石寺写本は上巻のみの写本で、下巻のみの写本が伝わる要法寺のものとセットになる。大石寺写本は年代不詳。京都要法寺の写本は元亀2年(1571年)のもので、八品派日経の写本よりもさらに32年後のもので、日蓮滅後289年のものである。
 
・『御義口伝』には「弘安元年正月一日」の日付があるが、弘安への改元は1278年2月29日であり、本来は「弘安元年」ではなく「建治4年」1月1日である。天皇践祚に正確に則って元号を記した日興が、元号を書き間違えるのは普通に考えてあり得ない。
 
・『御義口伝』「宝塔品廿箇の大事」では、元の徐行善の『科註妙法蓮華経』が引用されている。同書の刊行年は元貞改元元年、1295年であり、日蓮滅後13年に刊行された文献である。
 
・日興ら六老僧の文献に『御義口伝』や『御講聞書』が行われたという記録は存在しない。
 
・『御義口伝』は弘安元年の講述とされるが、末文に弘安5年選定の筈の「六老僧」の記述が存在しており、矛盾する。六老僧選定の事実は弘安5年の『宗祖御遷化記録』で日興真蹟で記録されている。
 
・『御義口伝』で多用される「無作三身」の語は、日蓮真蹟遺文では全く使用されない語である。日蓮は真蹟遺文で「無作三身」の語を用いたことはない。
 
・『御義口伝』最古の引用は明応元年(1492年)7月(日蓮滅後210年)に著された一致派日像門流の円明院日澄の『法華啓運抄』である(執行海秀『日蓮教学上に於ける御義口伝の地位』印度学仏教学研究3巻1号)。つまり日蓮死後200年以上もの間、誰一人として『御義口伝』について言及をしていないことになる。
 
・弘安期に日蓮が『御義口伝』や『御講聞書』に類するような講義をした記録は全く存在しない。
 
・上記の写本や引用から見れば、『御義口伝』は、日蓮死後200年近く言及もされない、謎の文書であり、200年〜300年後に突如出てくる文献に過ぎない。
 
・日興門流における最古の引用は、永禄元年(1558年)12月、京都要法寺19世日辰の『負薪記』が最初である。
 
 
 
……どうでしょうか? これでも『御義口伝』が日蓮の述作と呼べるでしょうか?
日蓮の死後200年以上も誰にも言及されず、突如数百年後に現れ、しかもそれは日興の筆録である筈なのになぜか日像門流や八品派の日隆門流にも伝わっている。大石寺要法寺の写本は八品派の写本よりも後世のもの。日蓮が死後に刊行された文献がなぜか引用されて、日蓮が講説したことになっている……。
これでも果たして『御義口伝』が日蓮の述作と呼べるでしょうか?
後世に偽作された『御義口伝』を日蓮述作とするなら、単に日蓮を貶めているだけかと思います。
 
 
 
 

 

日蓮御影を本尊とした最初の人物は、大石寺9世日有である。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて今回は大石寺教義で日蓮御影を本尊とする説が、歴史的にどこから始まる説なのかを考えてみたいと思います。
そもそも日蓮や日興の中で「日蓮御影を本尊とする」とした教義が存在するのでしょうか。
以前に「大石寺の本仏説の変遷」で紹介したように、日蓮御影を「本尊」と定義した最初の人物は大石寺9世日有です。『有師化儀抄』には明確に「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」(富要1-65)と書かれています。
 
 
大石寺の本仏説の変遷」
 
 
では日興は、日蓮御影を本尊と定義したことがあるのでしょうか?
重須談所(後の北山本門寺)の2代目学頭である三位日順の『日順雑集』の『従開山伝日順法門』では、確かに日興が日蓮御影を建立したことが述べられています。

 
「御滅後に聖人の御房を御堂に日興上人の御計として造り玉ふ、御影を造らせ玉ふことも日興上人の御建立なり」
(三位日順『従開山伝日順法門』、富士宗学要集2-95ページ)
 
ここでは「身延山」とありますので、日興が御影を建立した記録は身延在山中のことであることがわかります。
 
ところが同じ三位日順の『富士一跡門徒存知事』では、曼荼羅本尊を四菩薩を伴う釈迦仏像建立するまでの代わりとしてよいという発言が見られます。ここから見るなら日興の本尊は久成釈迦仏と曼荼羅本尊であり、日蓮御影ではないことになります。
 
 
「仏像を安置することは本尊の図の如し」
 
 
また日興が三位日順に「日蓮御影の建立」をしたことが述べられていても、日興はここで「日蓮御影」についての教義的意義を述べたとは日順は書いていません。また日興が自身の遺文で「日蓮の御影を本尊とする」と定義したことはないのです。
とすると、論点を整理すると以下のようになるでしょう。
 
 
1、三位日順によれば、日興が身延にいた時に日蓮御影が建立されていた。
 
2、日興が日蓮御影を身延で建立して拝していたことが推察されるが、日興は教義的に日蓮御影を「本尊」と定義してはいない。
 
3、日興は『富士一跡門徒存知事』や『原殿御返事』で「四菩薩を伴った久成釈迦仏の像」が建立されるまで「曼荼羅本尊」を代用として用いて良いとしており、日興の本尊は「釈迦仏像」と「曼荼羅」と定義していることになる。ここには日蓮御影が本尊であるとは全く書かれていない。
 
4、大石寺の歴史において、日蓮御影を「本尊」と定義した最初の人物は、9世日有であり、曼荼羅とともに「日蓮御影」を本尊として安置する淵源は日有がその濫觴ということになる。
 
 
以上のことが言えるかと思います。
 
 
 
 

 

大乗仏教運動の誕生と教化の特徴。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は「大乗仏教」とは何だったのか、インドで生まれた釈迦の仏教から離れ、新しく生まれて中国で大成した北伝仏教について、その運動の意義や問題点を簡単に書いてみます。参考にするのは中村元の『龍樹』(講談社学術文庫、2002年)第2章「ナーガールジュナの思想」から「大乗仏教の思想」の部分を中心に、私なりに噛み砕いて書いてみたいと思います。興味のある方はぜひ同書を手に取ってお読み頂けたらと思います。
今回の記事は若干長めになります。丁寧にゆっくりと読んでみてください。
 
 
紀元100年前後の仏教は、伝統的保守的仏教が圧倒的に優勢な社会的勢力となっていました。その中で、一般民衆とその指導者の説教師の間で新しい仏教運動が起こりつつありました。これがいわゆる「大乗仏教」になります。
 
 
大乗仏教に対して旧来の伝統的・保守的仏教は「小乗仏教」とされますが、これは「大乗仏教」側から故意に呼んだ蔑称に過ぎません。なので、私はあまり「小乗仏教」「大乗仏教」という言い方はしないようにしています。私の場合、どちらかと言うと前者は「上座部仏教」(それ以前は初期仏教か原始仏教)で、後者は「北伝仏教」あるいは「漢訳仏教」と呼ぶことが多いかと思います。
 
 
旧来の上座部仏教諸派は自分たちを仏教の正統とし、大乗仏教の存在を無視していました。
旧来の諸派はたとえ変容されたとしても、少なくとも歴史的人物としてのゴータマ・ブッダの直接の教示に近い聖典を伝えて、伝統的な教理をほぼ忠実に保存していたことです。
 
 
ところが大乗仏教は違いました。大乗仏教は伝統的な教理を無視して全く別の新たな経典を創作しました。そこに現れる釈迦は歴史的人物というより、むしろ理想的存在として脚色されて描かれるようになります。
 
 
また旧来の仏教諸派は当時、国王や富豪などの政治的・経済的援助を受け、広大な荘園を所有して、その社会的基盤の上に成立していました。
ところが、これに反して大乗仏教は、少なくとも初期のうちは、民衆の間から盛り上がった宗教運動であり、荘園を所有していませんでした。大乗仏教は「国王・大臣に近づくなかれ」として権力者に阿諛追従することを誡め、その信仰の純粋なことを誇りとしました。また富裕な者が寺塔を建立し、莫大な富を布施することに功徳があることを認めますが、それよりも経典を読誦したり書写したりすることの方が、比較にならないほどはるかに功徳が大きいとして読誦を推奨するのも大乗仏教の特徴でした。
 
 
伝統的仏教諸派は社会的勢力を有し、莫大な財産に依拠して、自ら身を潔しとしていたため、その態度は独善的・高踏的でした。彼らは人里離れた巨大な僧院内部に住み、静かに瞑想し、坐禅を修し、煩瑣な教理研究に従事していたのでしょう。
大乗仏教は、彼らの生活態度を強く攻撃しました。大乗仏教から見れば彼らの態度は利己的・独善的であると蔑視し、彼らを「小乗」と貶して、自分たちは利他行を強調するようになります。大乗仏教では慈悲の精神に立脚し、衆生を苦しみから救うことを希望します。利他行を実践する人は菩薩に当たるわけです。
 
 
しかしこのような菩薩行は、一般の凡夫には難しいものです。そこで大乗仏教派はまず諸仏諸菩薩に帰依し、その力によって救われ、その力にあずかって実践を行うことが説かれるようになります。したがって信仰の純粋であるべきことが強調され、ブッダはますます超人的な存在として表象されるようになります。
 
 
大乗仏教はそのために三世十方の諸仏の出世を表すようになります。阿閦仏、阿弥陀仏薬師如来などが特にそうです。また菩薩等も修行者を超えて超人化されるに至ります。実際、法華経では釈迦の永遠化が説かれ、阿弥陀仏が説かれます。また法華経でも普賢菩薩や観世音菩薩等の功徳が強調されています。
 
 
大乗仏教の教化方法は、当時の民衆の精神的素質あるいは傾向に適合するような仕方に頼る必要がありました。そこで仏や菩薩を信仰するなら、多くの富や幸福が得られ、無病息災となると説くようになります。そして注目されるべきは、教化の方法として大乗仏教は陀羅尼と呼ばれる「咒句」を用いるようになることです。これらの陀羅尼(呪文)読誦による教化は大乗仏教側としては大きな成功を収めましたが、中村元氏は「しかし同時に大乗仏教が後に堕落するに至った遠因をここにはらんでいる」(前掲書59)と述べています。大乗仏教は現世利益と民衆にわかりやすいことを優先し、陀羅尼に偏向するようになったがため、本来の釈迦の原始仏教の考え方から乖離が生じ、後に権威化する側面を持ったと言えるでしょう。中村元氏は「大乗経典は、それ以前に民衆の間で愛好されていた仏教説話に準拠し、あるいは仏伝から取材し、戯曲的構想をとりながら、その奥に深い哲学的意義を寓せしめ、しかも一般民衆の好みに合うように作製された宗教的文芸作品である」(同59〜60)と述べています。つまり大乗仏教は伝統的な教理の批判から始まりながらも、その実、本来の釈迦の教えから徐々に逸脱していくことになった「文芸作品」に過ぎないのです。
 
 
少し長くなりました。
大乗仏教の祖と言われる龍樹がこの後、なぜ説一切有部を批判するに至ったか、また説一切有部伝統仏教教派でありながら、なぜ「法有」の立場を主張し、それに対してなぜ龍樹が『中論』を書いて批判するに至ったのかについては、また別稿を考えたいと思います。
 
 
 
 
参考文献
 
中村元『龍樹』講談社学術文庫、2002年(原著「人類の知的遺産シリーズ」13『ナーガールジュナ』講談社、1980年)
秋月龍珉『誤解された仏教』講談社学術文庫、2006年(原著『誤解だらけの仏教-「新大乗」運動の一環として』柏樹社、1993年)
 
 
 
 

 

大石寺6世日時書写本尊と戒壇本尊との相違。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は大石寺歴代法主の書写本尊の相貌と戒壇本尊との相違を検証するシリーズです。
 
 
「日興書写曼荼羅戒壇本尊との相違」
 
「弘安10年日興本尊と戒壇本尊との相違」
 
大石寺3祖日目書写本尊と戒壇本尊との相違」
 
大石寺4世日道書写本尊と戒壇本尊との相違」
 
大石寺5世日行書写本尊と戒壇本尊との相違」
 
大石寺9世日有書写本尊と戒壇本尊との相違」
 
 
今回は大石寺6世日時書写本尊を見てみたいと思います。
ところで、大石寺6世日時が書写した本尊は多数残されていまして、私が私的に集めた史料だけで15幅の本尊画像が確認できます。全てをここに載せると煩瑣になりますので、2幅ほどの掲載に限らせていただきます。
 
 
まず最初に応永9年(1402年)10月13日書写、柳目妙教寺蔵の日時書写本尊です。

 
次に応永11年(1404年)卯月日書写、森上行寺蔵の日時書写本尊です。

 
日時の書写本尊は整然と書かれた印象があり、勧請された各文字も大きさや位置まで整頓されて丁寧に書かれています。
さて、これと戒壇本尊との相貌を比べてみると以下のことがわかります。

1、戒壇本尊に書かれない「有供養者福過十号」「若悩乱者頭破七分」が書かれ、さらに「謗者開罪於無間」「讃者積福於安明」も書かれている。
 
2、「南無天台大師」と「南無妙楽大師」の位置が左右逆になっている。
 
3、讃文が「仏滅度後二千二百三十余年」となり、戒壇本尊の「仏滅後二千二百二十余年」と相違する。
 
 
以上、3点が相違します。
細かいことを言えば書かれる位置等、さまざまに相違点を指摘できますが、ここでは上の概ね3点のみに指摘をとどめておきましょう。
私は戒壇本尊が後世の偽作であり、偽作された時期はおおよそ「大石寺6世日時〜大石寺14世日主」の時代のどこかであると考えています。
しかしながら大石寺6世日時にも、また大石寺9世日有にも戒壇本尊と相貌が同じものが存在しない以上、そもそも「大石寺法主戒壇本尊を書写して本尊を下付する」という教義は、後年に創作されたものでしかないと考えられます。彼らにあってはまず戒壇本尊の偽作、本尊堂の建立による大石寺の権威化が先にあるのであって、教義の整理は後世に入って徐々に作られたのでしょう。
 
 
また日時書写本尊では、日興や日有に見られるように「有供養者福過十号」「若悩乱者頭七分」を1行ではなく2行に分けて書く書法を採っています。これらは現在の大石寺法主の書法とも異なっています。現在の大石寺法主は両讃文を1行で縦に書くのが通例になっている筈です。

つまり大石寺における本尊の書き方も、最初から決まっていたのではなく、歴史的に少しずつ形成されてきたものなのであり、細かい相伝など存在せず、後出しで作られた可能性が高いことになります。
 
 
 
参考文献
『御本尊集 奉蔵於法寶』日目上人奉讃会、平成12年
柳澤宏道『石山本尊の研究』増補版、はちす文庫、平成25年
 
 
 
 
 

 

『御義口伝』から離れること。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
ところで、創価学会大石寺系の信者さんは、日蓮系なのにほとんど法華経を読まない人ばかりです。
彼らは偽書でしかない『御義口伝』ばかりをありがたがっては、『御義口伝』またそれを利用した池田大作氏の『法華経智慧』等ばかりを読み、肝心の法華経は全く読んだことさえないありさまです。そんな信徒がたくさんいます。
 
 
そもそも『御義口伝』が後世の偽作でしかないことは、このブログでも繰り返し述べているところです。
 
 
大石寺写本『御義口伝』の改竄」
 
 
「『御義口伝』の信憑性の低さ」
 
 
「『弘安元年正月一日』という日付は存在しない」
 
 
「『御義口伝』末文の削除」
 
 
そもそも『御義口伝』で引用されている徐行善の『科註妙法蓮華経』の刊行は1295年(日蓮没後13年)です。生前の日蓮がどうやって自身の死後に刊行された文献を読んで引用できるというのでしょう?
また弘安元年とある筈なのに、末文には弘安5年に選定された「六老僧」があるのも時系列として矛盾します。『御義口伝』は矛盾だらけの文献なのです。そもそも弘安の改元は2月29日であって、弘安元年に「1月1日」は存在しません。天皇践祚に合わせて元号をきちんと書いた日興が間違った元号を書く筈がありません。この点でも『御義口伝』は後世の偽作であると思います。
 
 
ところが、そういうことを言うと、『法華経智慧』等の池田大作解釈で『御義口伝』を学んできてしまった創価大石寺系信者たちは動揺したり反発したりします。彼らは「そんな筈はない」「書かれた思想が素晴らしければよい」のだとか言って自己弁護を図るのです。
『御義口伝』は論理の飛躍が多く、法華経の文字を字面から自由に解釈する書です。当然ながら法華経に述べていないことを勝手に解釈している印象が非常に強く、例えば普賢品の「作礼而去」は本来サンスクリット原典に存在しない詩句なのに、わざわざ特別な意義を持たせようとしています。「作礼而去」は鳩摩羅什による恣意的な付加なのであって、本来の法華経には存在しない語です。
 
 
「『作礼而去』について」
 
 
『御義口伝』をそのように鵜呑みにしてしまうと、そのような間違った字面だけの法華経の歪曲を安易に受容するだけの態度になり、法華経そのものの軽視になろうかと思います。ところが、彼らはそのことにさえ気づかないのです。それはまさに宗教的洗脳であり、自身の浅はかさに気づくことができない姿はもはや「洗脳」と言って良いでしょう。
 
 
 
私は若い頃、創価学会の活動家でした。当時の私もまた『御義口伝』を読み、感銘を覚えて『御義口伝』の研究ノートを作成していました。それは誰にも見せることなく、自身で教学の一つの到達点として個人的に完成させたいという思いでした。
しかし私が広宣部の活動から離れて非活になって以降、私はこの『御義口伝』の覚書を全て否定しました。私自身が『御義口伝』の偽作説を知り、これを根本にすることを否定せざるを得なくなったのです。
私は今まで学んできたことが全て「嘘」だったと知りました。私がやったことは全ての検証です。私は鳩摩羅什漢訳の法華経を一つ一つ読むようにしました。サンスクリット原典は読めませんから、その邦訳を片手に対照しつつ、読み進め、そこで初めて鳩摩羅什の漢訳と法華経の原典には乖離があることを知りました。鳩摩羅什法華経をきちんと訳してはいませんでした。確かに鳩摩羅什漢訳により法華経が広まった功績を肯定的に評価してもよいとは思いますが、私には方便品の「十如是」(本来は5つしかありません)や、普賢品の「作礼而去」(本来は存在しません)など、恣意的な鳩摩羅什の訳業に検証の必要を感じました。
 
 
全てを知るには相応の時間がかかりました。
私が非活メンバーになり、ブログを書き出すまでに数年の時間がかかっています。その間はひたすら文献を読んでいました。
そして母と父が亡くなり、私はブログを書く決意をしました。今まで学んで知ったことを少しずつ検証しながら気楽に書きたかったのです。
 
 
ところが、今の活動家たちは、創価学会の『御義口伝』偏重による法華経読解が、単なる偽作の教義だということを認めることができません。彼らは多くが洗脳されてしまっていて、池田大作の『御義口伝講義』や『法華経智慧』に何か優れた思想性があると信じ込んでしまっています。そんなものはありません。
池田大作氏の『御義口伝講義』や『法華経智慧』にあるのは、単なる大石寺26世日寛解釈による『御義口伝』と、ウパニシャッド思想の付加による仏教でも何でもない生命論があるだけです。生命論は単なるウパニシャッドバラモン教の教えであり、仏教で一番近いのは真言密教思想になります。彼らは密教を学ぼうとしているのでしょうか? そんなことさえ、彼らは指摘されても認めることができず、また洗脳が深く頑迷になってしまっているのです。
 
 
私は今でも文献を読み続けています。
私の願いは、多くの創価大石寺系信者が後世の創作教義の桎梏から離れて自由になることです。そしてそのためにはまず『御義口伝』を否定して、法華経を直接読むことです。
私はそれをやりました。それなりの痛みも伴いましたが、私はそのおかげで自由に思索ができるようになりました。