気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

神社建立・本尊奉納は大石寺の本来の教義

 

 

 

いつもみなさん、ありがとうございます。

 

 

 

さて前回の記事で、日蓮・日興も法華経を中心とした国家思想を考えていたこと、そしてその上で「法華垂迹天照大神宮」を建立し、本門寺建立の暁に本門寺垂迹神天照大神になることを実質認めていたことを簡単に書きました。

 

 

 

以前の記事でも書いたことですが、このことは実は大石寺も認めていまして、日蓮正宗の公式な見解としては「広宣流布の時に至って神社を建立し、その中に曼荼羅本尊を懸け奉ることは本来のあるべき姿」であるということです。だからこそ日蓮正宗の公式な見解として沼津・東井出の浅間神社大石寺33世日元書写本尊が奉納されている事実も認めています。平成18年の『慧妙』から引用してみましょう。

 

 

 

「沼津に数ある浅間神社のうち、日元上人の御本尊が御安置されている浅間神社のある一帯は『東井出』といい、代々大石寺の総代を務める井出家に連なる人の所領であった。しかも、目と鼻の先には、日蓮正宗の古刹の一つである蓮興寺がある。

蓮興寺は、承応元年(1652年)6月8日、総本山第20世・日典上人によって再興されているから、それ以前のことも考え合わせれば、再興から百年以上も下った日元上人の御代には、一帯全てが日蓮正宗に帰伏していた、といえよう。つまり、この時期、この一帯はすでに広宣流布されていた、と見てよいのである。

ところで日有上人は、『化儀抄』に、日興上人が重須に八幡の社を建立し、その中に御本尊を懸けられた、と記されている。(『富士宗学要集』第1巻157頁)

しかして日有上人は、その意義について、これは、広宣流布の暁には本門寺に八幡の社を建てるように、という手本の意味で建立されたものである、とされている。

つまり、広宣流布の時には、神社を建立し、その内に御本尊を祀ることは謗法ではないばかりか(むろん他の神体などと一緒に祀るわけではなく、あくまでも御本尊のみ)、むしろ、それがあるべき姿である、ということである。

現に、かつて広宣流布がなされた大石寺周辺には、大石寺の歴代上人の御本尊が祀られた社が複数あり、その中には、日有上人に係わる社や、日寛上人の御本尊が祀られている社もあるのである。そして、かつて創価学会は、これらを『正しい祭祀の伝統と誇りある先人の偉績』と評していたのである。」

(『慧妙』日蓮正宗、平成18年11月1日、下線はブログ筆者による)

 

 

 

一読して明らかなように、曼荼羅本尊は広宣流布の時に神社に奉納する姿が「あるべき姿」であると書かれています。しかも沼津・東井出という限られた地域だけの「広宣流布」の事態でも、神社への曼荼羅奉納は教義的に特に問題視されていなかったということです。

 

 

 

そして日興本人による『本門寺棟札』が、北山本門寺に現存しています。全文を紹介してみましょう。

 

 

 

「一、日蓮聖人御影堂

一、法華垂迹天照大神

一、法華本門寺根源

 永仁六年二月十五日造立也

 

(裏書)

国主被建此法之時三堂一時造営也

願主 白蓮阿闍梨日興 花押   二月十五日 日妙 花押 六十歳

大施主 地頭石川孫三郎源能忠  合力 小泉法華寺

大施主 南條七郎次郎平時光   仝 上野講衆中」

(日興「本門寺棟札」、日蓮正宗歴代法主全書1-88ページ、日蓮宗宗学全書2-111ページ)

 

 

 

一読しておわかりのように、確かに日興が「法華垂迹天照大神宮」を造立し、国主が日蓮の教えを用いる時、三堂は一時に造営すべき旨を述べ、きちんと名判まで付けてあります。

 

 

 

とすると日蓮から日興らが引き継いだ思想に明らかに神道が存在し、広宣流布の時の本門寺の垂迹神天照大神になるという日興の考え方を、大石寺はきちんと踏襲していたことになろうかと思います。

つまり日蓮・日興にあっては、法華経を信じるものが天照大神を奉戴するのはむしろあるべき本来の正しい姿なのであって、法華経を信じるものが天照大神や八幡を拝むことはなんら禁止されたものではなかったということです。だからこそ昔からの根檀家とも言うべき伝統講、旧来からの大石寺信者さんの多くが普通に浅間神社を参拝していたのは謗法でも何でもない、普通の信仰だったということです。その信仰が昭和に入り、創価学会による狸祭り事件での小笠原慈聞の吊るし上げ等により、徐々に大石寺の教義が浸食を受け、創価学会寄りの教義に変わっていったというのが偽らざる実態なのではないかと私は考えています。

 

 

 

追記

実際、大石寺33世日元だけではなく、51世日英も浅間神社曼荼羅本尊を奉納しています。以下の記事に画像を載せましたので参考までに。

https://watabeshinjun.hatenablog.com/entry/2017/03/09/031232

つまり33世日元にせよ、51世日英にせよ、これらの本尊奉納は大石寺の日興の教義から考えても、別段問題があるものではなく、むしろ本来の日興の思想としてふさわしいものとして当時は考えられていたということになるでしょう。そうでなければ大石寺法主本人が神社に本尊を奉納するという事自体、筋が通らなくなるはずです。