いつもみなさん、ありがとうございます。
「興門派の持ち回り管長」
例えば曼荼羅本尊の奉安の仕方も、かつての大石寺の旧信徒さんの仏壇に見られるように、現在の御影堂の形式、すなわち曼荼羅の前に日蓮御影を安置する形も多く見られました。これがいわゆる一幅式(曼荼羅のみの奉安)に統一されて来るのは創価学会の出現以降のことです。
「本尊の奉安様式」
また、大石寺の現在の多くの信徒さんは大石寺に定期的に登山して参詣するのが常識のように思われていますけど、本来月例の登山会というのは創価学会の第2代会長の戸田城聖氏によって定例化されたもので、本来大石寺には定期的に登山をしなければならないという教義は存在していませんでした。
「登山会のこと」
また大石寺は「謗法厳誡」として他宗派を排斥したりしていますが、かつての大石寺は他宗派を排斥したりせず、例えば境内に八幡大菩薩や天照大神を祀った「天王堂」や「垂迹堂」を建て、他宗派の仏壇やお守りなどを厳格に否定したりはしていませんでした。謗法厳誡として他宗派を排斥するようになったのは、主に昭和に入り、創価学会が出現して「謗法払い」という厳格な他宗排斥(具体的には他宗の仏壇や御守り等を捨てたりすること)が常習化するようになってからのことです。
「大石寺伝統講、旧檀信徒さんについて」
つまりこれらから考えるに、現在の大石寺のアイデンティティは、本来元々から大石寺に存在していたものなのではなく、他山からの教義を受け入れ、加えて昭和期の創価学会の影響から作られてきたものだということです。
現在の大石寺の布教活動の対象の多くが元創価学会員や顕正会員で、その退会者を主たる布教対象としていることからも、その布教方法が戸田城聖由来の方法論に根ざしていることは間違いないと思います。とりわけ顕正会の布教方法は戸田城聖氏の影響が強いと考えられます。
「八品派と細草檀林」
「敬台院と日精のこと」
「日蓮本仏説の萌芽」
とするなら、大石寺の現在のアイデンティティは創価学会由来の他宗派否定の文脈に過ぎず、それを教義としてかつての昭和の創価学会と同様の行動をし、それがあたかも本来の大石寺の姿であるかのように偽っているのが、現在の教団の偽らざる実態のように思います。