いつもみなさん、ありがとうございます。
ただ大石寺そのものは独立を主張し続けて、独自性を訴えてきたんですが、明治政府にも興門流の他の本山にも相手にされませんでした。
54世日胤も独立を訴え、55世日布も内務省に独立を訴えたのですが、事実上退けられます。
大石寺が独立するのはその後の明治33年のことで「日蓮宗富士派」と称していました。その後宗門の名称の検討が宗内で行われ、明治45年(1912年)6月7日に57世の日正の代に「日蓮正宗」という名称が決定されることになります。
ここで私が書きたいことは、大石寺の独立を明治政府も、興門流の他山も認めなかったという点です。
明治政府から見れば大石寺は他の本山同様、日興門流の流れに属し、そして宗義的にも他の本山からの影響下にあります。
また他の七本山も決して大石寺の血脈の正当性を認めてはいませんでした。すなわち北山本門寺、西山本門寺、下条妙蓮寺、小泉久遠寺、京都要法寺、保田妙本寺、伊豆実成寺は大石寺の血脈の正当性を認めなかったということです。
そもそも以前ブログで書いたように"日蓮本仏説"はもともと大石寺の教義には存在せず、9世日有の日蓮本尊説を堅持していました。日蓮本仏説は保田妙本寺の日我が先行して主張していまして、大石寺はそれを吸収し、最終的には日寛により自宗の教義として作り上げられたものに過ぎません。
「法灯連綿」とか言いますけど「法灯連綿」にせよ「法水写瓶」にせよ、他宗門で普通に使われる教義であり、大石寺独自のものではありません。