気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

登山会のこと。





いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は登山会のことです。



そもそも大石寺への定期的な登山会というのはいつ始まったかと言いますと、これは創価学会戸田城聖会長の頃に始まったものです。



本来、大石寺の歴史には登山会なるものは存在しませんでした。もっと言ってしまうと旧信徒会や檀徒の方には唱題の習慣さえありませんでした。
それまで恒常的な登山会というものは大石寺に存在していなかったのですが、戦時中から戦後にかけて大石寺は農地改革で土地を持っていかれてしまい、財政的に厳しい状況にありました。それを見かねた戸田城聖氏がお山のためにと始めたのが登山会の始まりです。


現在続いている大石寺の登山会の形式というのは、要するに創価学会から始まったものが形式として定着したということに過ぎません。


そもそも大石寺は江戸時代までそんなに簡単に参詣できる場所でもありませんでした。江戸以降に街道が整備されて、比較的参詣しやすくなったかと思いますけどね。
それでも驚かされるのは、江戸以前でも信仰心から大石寺に登山する熱心な僧侶が存在したということです。
京都要法寺の日辰や讃岐本門寺の日円等、わざわざ遠路はるばる大石寺まで登山しにやってきて、その記録もあったかと思いますね。



ただその頃の登山というのは、大石寺だけでなく重須の北山本門寺西山本門寺等の富士門流の諸山を参詣することがいわゆる登山でした。そもそも日蓮正宗という宗派は当初存在しなかったわけですし、富士大石寺は単なる富士興門流の一本山扱いに過ぎませんでした。
19世紀から20世紀初頭にかけては大石寺は興門唱導会の一つでしかありませんでしたし、そのことはちゃんと富士年表にも記載されているはずです。



ですから「お山に登山しないと成仏できない」などと言うのは、本来大石寺で言われていた教義でも何でもありません。戸田城聖の頃に始まった創価学会主導の行事に過ぎず、それが形式化して現在もなお続いているというのが実情です。
もし大石寺の過去の歴史に登山会があったというなら、門前町の一つもあってよいはずでしょう。それもありませんし、登山会というものは後世の化儀でしかなく、戸田会長時代の創価学会によって作られたものかと思います。