いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は社長会についてです。
社長会については以下に書きましたが、池田大作氏が会長就任した昭和35年(1960年)以降、創価学会は次々と外郭企業を設立するようになります。その中で生まれたのが「社長会」で、対外的には「金剛会」と呼ばれていました。
「社長会のこと」
「社長会」が実在していたことは『社長会記録』(「継命」編集部編『社長会全記録』継命新聞社、昭和58年)の存在からも明らかな事実ですが、創価学会の信者さんは全く認めようとしません。しかしながら以下のような状況証拠から「社長会」が実在していたことは疑う余地がありません。
1、『社長会記録』の記録は東洋精光(後の東洋物産)の4代目社長である木村靖氏が記録して残しており、そのことを示すように木村氏の記録は「東洋物産」の社用箋に書かれている。
「東洋精光のこと」
2、央忠邦『池田大作の奇跡-1』(徳間書店、1980年)に収録された央忠邦氏と池田大作氏の対談において、池田氏本人が「皆が学会員であったので」「人材育成の意義も含めて」「社会観を広めるために作られた」「皆が立派な人材に成長し、会社も立派にしていこうというため」に社長会を結成したことを既に同書中のインタビューで認めている。
3、『社長会記録』は当初、内部告発の形で松本勝彌氏により『池田大作言行録』として昭和54年9月に出版された(泉文社)。創価学会側は当初、木村靖(元東洋物産社長)名義で出版差し止めを裁判所に申請し、「著作権侵害」として告訴をした。つまり創価学会側は「池田大作氏の著作」であることを認めており、その著作権の侵害を訴えたことになる。しかしその後、昭和57年に和解に至っており、また別の裁判では創価学会側が訴えを取り下げている。
さて前置きが長くなりましたが、今回からこの『社長会全記録』を少しずつシリーズで紹介してみたいと思います。
社長会は対外的な場合には「金剛会」と呼ばれ、第1回の社長会が昭和42年6月25日に行われてから、昭和47年6月15日の最後の社長会まで計61回に渡って行われました。場所は料亭やホテル等で食事をしながら池田大作氏を囲んで語り合う定例的な集まりだったのです。
参加者は以下のようなメンバーです。なお常任のメンバーと別に一度や二度しか参加していないメンバーも「参加者」として以下の名前に加えてあります(具体的には北条浩、和泉覚、池田博正、竹入義勝、矢野絢也、姉小路公経、諸富文紀など)。
○池田香峯子(池田大作夫人)
○北条浩(元創価学会会長)
○星王務(元創価学会総務、第一商事[旧大蔵商事]元社長)
○星野義雄(元ひさご印刷社長、元登山部長、元東京都議会議員)
○杉本芳照(元栄光建設社長、元創価学会総務、元新宿区議会議員)
○島津矩久(元潮出版社社長)
○大沢重信(元経済開発センター代表、元渋谷区議会議員)
○藤田芳男(元東洋物産役員)
○矢追秀彦(元公明党副委員長)
今回の記事では第1回社長会を紹介してみます。
「第1回社長会 [於小富美] 42.6.25 午後5:00〜8:00
先生、和泉、北条、星王、田中(日本図書)、篠原(博文堂)、八矢(創造社)、星野(ひさご)、木村(東洋)
◎広布の経済を推進する本当のグループとして育て。今の富士クラブ、経済第2等は迹門である。
◎この社長会の会長は私である。
社長会の経費はもちまわりで、毎月1回一流のところでやる。社長らしい勉強をせよ。
◎将来は各社の出資と人材で一流会社をつくる。本当の一流会社をつくらなければ広布はできない。例えばモノレールの会社等。
◎担当 7月博文堂 8月日本図書 9月創造社
10月東洋 11月ひさご
9月は旅行しよう
◎東洋精光の今後の目標を決めねばならぬ。
電化製品の販売は続けてゆくが、広布に直接つながる仕事を考えよう。
次の社長会に検討しよう。新しい目標がないと怠惰に流れる。当分体制はこのままで。あまり入れたくはないが、外部に対して表にたてる必要があれば役員として入れる。
◎東洋ビルは5階建位でつくり、創造社もそこに入る。
◎皆さんの子供や家族は、その社に対して絶対にきちんとする様にする。安心して闘え。
◎広布の闘いで、政党、学校、文化、民音等も出来た。最後に残ったのは経済だ。これから、この社長会を中心に経済革命をする。一番最後で、一番大事で、又一番晴れがましい舞台だ。心ある社員、信頼出来る社員には、この事を話してゆきなさい。
それだけの力をもたねばならぬ。
◎正本堂建立後は乱戦である。正々堂々たる勝利をしよう。それ迄に完璧の体制、組織を作り上げよ。資金も人材も盤石の構えで行け。不沈艦で堂々とゆこう。
◎東洋精光の社長は肥(ふと)れ。とらえられた忍者の如し、よく寝て、よく食べて肥りなさい。休養し、社会の知識を身につける事も大事な仕事だ。
◎ここは財界の超一流だけが集まるところだ。三菱の頭取の関係。(頭取から寿司、デザートが届けられた)
◎私がこれをやった方がよいと云ったものは、必ず成功する。やっぱり境智の二法だ。
◎戸田先生の指導を利用して、自分の確信にする程、愚かな事はない。戸田先生の指導も不変真如の理であり、一機一縁であり、自分よがりになる。それを生かすもう一歩の随縁真如の智が大事である。
◎戸田先生の教えは、ひさごが発展するためのものだ。それを先生もよろこんで下さる。戸田先生の心は私しかわからないんだ。ひさご印刷の名前が子供に覚えられることも必要だ。秀吉がひさご一つから出発した。秀吉のようになろう。それも大事なことだが、時代が変ってきている。俺が俺がと云わずに、皆で大きくなってゆけ。政治に流れている。本当にすっきりとゆけ。最初に名刺の印刷をたのんだのは誰か? "小泉先生"等です。その辺から政治になってきた。すっきりと立ち直れ。
◎鳳書院の社長の件、検討。小島、今村? 内定。
◎先生の廻りにいる人はこわい。外の人以上に気をつけ、つくしてゆかなければだめだ。
◎人生は根底は幸福か、不幸かのどちらかだ。中間はない。
◎ボーナス、本部は7月1日支給する。遅れるところは発表だけしなさい。平均1.5カ月分。
◎東洋精光の名前は子供には覚えにくいが、よく広まった。
◎ひさごは半官半民だ。今後の姿は社長が腹を決めよ。
◎うんと若手を育て、後はゆうゆうと世界中、遊びにゆこう。
◎第一商事も、戸田先生がいられる時は守られた。その後、だんだん変って、学会人をやめさせ、謗法を雇い、儲けは、結局自分達のものにしようとした。最初は学会に全資金を出すようなことをいっていたが、ついに脱税でごっそり、根こそぎとられた。」
(「継命」編集部編『社長会全記録』より25〜27ページ、継命新聞社、昭和58年)
この回が社長会の第1回とのことで、池田大作氏はここで社長会の意義について話しています。ここで池田大作氏は「広布の経済を推進する本当のグループとして育て。今の富士クラブ、経済第2等は迹門である」と述べています。また「広布の闘いで、政党、学校、文化、民音等も出来た。最後に残ったのは経済だ。これから、この社長会を中心に経済革命をする。一番最後で、一番大事で、又一番晴れがましい舞台だ」とまで述べており、いかに池田大作氏がこの「社長会」を重視し、重要な組織と考えていたかがわかるかと思います。
当時、言論問題以前の創価学会は「総体革命」ということを主張し、政治や文化や学校まで創価学会で進出していくことを述べていたので、「経済」の意味で「広宣流布」をする「社長会」の意義をここで池田氏が述べているのは非常に興味深いです。
また社長会のメンバーには「広布の経済を推進する本当のグループとして育て。今の富士クラブ、経済第2等は迹門である」と述べており、富士クラブ(詳細は不明。創価学会信者で大企業の社長クラスのメンバーの集まりのよう)や経済第二部(創価学会文化局の中に経済部を設け、社長クラスのメンバーを組織化したもの)のことを「迹門」としています。これはつまり池田大作氏がこの社長会自体を「本門」と考えていたことになります。
抑も「迹門」「本門」とは法華経を前半14品と後半14品に立て分け後半を優れるとする、天台の教判、また大石寺26世日寛由来の五重相対の本迹相対に由来するものです。当然ながら「迹門」「本門」とは法華経に対して使われた教義的用語ですから、それを無理矢理に組織の運用に当て嵌めるのは奇妙な話です。ここからも池田大作氏の思想が当時から単なる教学用語の現代的な換言に過ぎないということがわかるでしょう。「境地の二法」も同様です。
「池田大作の思想には内実が存在しない」
最後に出てくる「第一商事」とは後年に名前を変えた「大蔵商事」のことです。「大蔵商事」は戸田城聖が設立した金融会社であり、池田大作氏は会長就任以前にこの会社に深くかかわり、営業部長までつとめていました。池田氏は会長就任以降、この会社の経営から離れ、この昭和42年当時は星生務氏が務めていました。
「大蔵商事のこと」
「森重光生と和光社」
また今後も「社長会」の各回の様子を記録から紹介してみたいと思います。今回はかなりの長文になってしまいました。ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
追記
第1回の社長会会場は「小富美」となっています。これはかつて築地に存在した料亭「小富美」のことと考えられます。社長会はこのようなレストランや料亭、ホテルの一室などを貸し切って皆で料理を食べながら行われていたことが推察できるでしょう。