気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

納得できる説明があるのか。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて今回は池田大作氏の過去の対談から、創価学会日蓮正宗の一部信者たちの教義の説明に対する非論理的な態度について、考えてみたいと思います。
 
今回紹介する文献は、池田大作/大森実『革命と生と死』(講談社、昭和48年)になります。

この中で、ジャーナリストの大森実氏は、大谷壮一氏の述べる日本社会に内在するタブーとして「シャーマニズム」を挙げたのですが、その際の池田大作氏の回答を紹介してみたいと思います。

「池田 日蓮正宗創価学会は、シャーマニズムではありません。というのは、御書に「利根と通力によるべからず」と断定してるんです。
大森 ははあ。
池田 通力とは神霊みたいなものと通ずる力--シャーマンです。そういうものによってはならないというのが仏法です。
そういうものを排除して、生命の法を厳密に探究し解明したのです。学会の行き方は、いわばその仏法哲理を学び実践する哲学団体ではありますが、シャーマニズムでは決してありません。それはまだ深くご認識になっていないとわたしは言わざるを得ない。
なぜ創価学会が大きくなったかという問題は、先ほどから申し上げているとおり、日蓮大聖人の哲学が非常に高度であり、青年に魅力がある。また、一部の人は別としまして、知識階層にも納得できる、理解できるという強さ。
それからもう一つは、前会長のその仏法を時代的に解明して、理解せしめる指導理念が体系的に打ち立てられてあった。そこにわたしは大きくなった一つの鍵があると申し上げます。」
(前掲書118〜119ページ)
 
 
ここで池田大作氏は日蓮の「利根と通力によるべからず」という言葉を引用して、創価学会の信仰がシャーマニズムでないことを強調しています。
この「利根と通力によるべからず」という言葉は、日蓮の『唱法華題目抄』に出てくる表現で、正しくは「利根と通力とにはよるべからず」になります(創価学会旧版御書全集16ページ)。

「通力」とは文字通り「神通力」のことです。また「利根」とは「鋭利な五根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根)」のことです。法華経の法師功徳品では「法華経の力によって六根の種々の功徳が得られ、六根が清浄となる」ことが説かれますので、「利根」とは創価学会では「功徳」の意味にとられることが多いようです。事実『御義口伝』では「功徳」を「六根清浄」と捉えています(同762ページ)。
つまり池田大作氏は「創価学会シャーマニズムではない」ことの根拠として『唱法華題目抄』をあげ、「六根清浄の功徳や神通力等の超常の力を依拠としてはならない」と述べたことになります。
 
シャーマニズムの定義はさまざまですが、多くは神霊や超自然的な存在が憑依し、超常の力を行使するようなもののようです。創価学会の信仰は、ウパニシャッド的な大宇宙に内在する生命と個人の生命の調和による仏界の涌現を主張しますから、確かに神霊や精霊の憑依とは少し違うと主張されるのかもしれません。
池田大作氏の主張は、そのような「功徳」や「超常の力」「神通力」等に根拠を置くのではなく、それらを排除して「生命の法を厳密に解明し探究した」「哲学が非常に高度であり」「青年に魅力がある」「知識階層にも納得できる、理解できるという強さ」が創価学会にはあるのだということになろうかと思います。
 
とするなら、創価学会信者、またその幹部たちは、非信者や部外者からの教義的な質問に関しては「知識階層にも納得できる説明」をしなければならない筈です。それは「哲学が非常に高度で」「青年に魅力があり」「知識階層にも納得される」ものがあると池田大作氏が述べているのですから。
ところが、その割にここのブログで書かれているようなことを質問すると、創価学会信者や幹部、活動家たちは多くが話をはぐらかします。「理屈ではわからない」「信心がなければわからない」「貴方は二乗の信心だ」「仏教は理論ではなく実践なのだ」「池田先生と心を合わせなければまたわからないのだ」等々、論理的な説明を避けるのです。
 
例えば私はこのブログで、『御義口伝』が後世の偽書でしかないことを述べています。根拠は非常にシンプルですが、『御義口伝』中には日蓮の死後13年後に刊行された元の徐行善編の『科註妙法蓮華経』が引用されています。どうして日蓮が自分の弘安元年の講義で、自分が死んだ後の文献を引用して述べることができるのでしょうか。またそもそも『御義口伝』は富士門流に写本が伝わっていたものでさえなく、本来は日隆系で八品派の日経の写本が最古のものです(池田大作氏の『御義口伝講義』の中でもそのことは指摘されています)。
 
大石寺写本『御義口伝』の改竄」
 
ところが、それを説明すると、多くの創価学会日蓮正宗の活動家たちは狂ったように罵り出すのです。「信心で拝さなければわからない」とか「内容が優れているのだから『御義口伝』は真書なのだ」等、全く非論理的なことを述べて、自分たちの『御義口伝』の正統性だけは担保しようとするのです。
もしも創価学会に「知識階層にも納得できる強さ」があるとするなら、論理的に正当な批判は受け入れても構わない筈です。その上で今後教義として考察、深化させていけばよいだけのことですし、また『御義口伝』以外の日蓮真蹟遺文から『御義口伝』を補完するような教義を研鑽し、批判を生産的に受け止めればよいだけなのです。
それができずに、口汚く他者を罵り倒し、異論を排除するような態度で非信者に接することは、果たして「生命の法を厳密に解明し探究した」「哲学が非常に高度で」「青年に魅力がある」「知識階層にも納得できる、理解できるという強さのある」宗教行為と果たして呼ばれ得るのでしょうか。私には甚だ疑問に思えてきます。
 
 
以下、参考まで。
 
「非難中傷行為を繰り返す過激な創価学会系アカウント」
 
「間違いを認める態度」
 
「狂信的な大石寺の信徒」
 
「思想信条の自由、そして原理主義的態度のこと」
 
反証可能性について」
 
「わけのわからないこと」