いつもみなさん、ありがとうございます。
「日蓮の真蹟について」
私の知っているものだけで構成したので、だいぶ粗漏があろうかと思いますが、こういう勉強をさせて頂いたことはありがたかったです。
ただ問題は、このような日蓮の真蹟に関する等の研究が、逆に自動的に教団サイドから与えられるだけと考える信者ばかりになってしまったということではないでしょうか。
信者が自分たちで考えること、自分たちで学ぶことを失念してしまっているのかと思います。
例えば上記記事を読めばお分かりのように、創価学会版御書全集に未収録の遺文も多数あります。それらは読まないでも良いのでしょうか。
例えば『御義口伝』『諸法実相抄』『生死一大事血脈抄』『総勘文抄』『阿仏坊御書』『一生成仏抄』『当体義抄』『百六箇抄』『本因妙抄』等々、偽書説濃厚な遺文ばかりを読んで、しかも知識は断片的。全く真蹟遺文に基づいた議論が信者はできなくなっています。そもそも「真蹟って何ですか?」と聞いてくる方さえ少なくありません。
「『開目抄』の上巻には何が書かれていますか?」
「あ、私、御書よくわからなくて」
あの〜、『開目抄』ですけど?
「『立正安国論』には略本と広本の二つがありますよね?」
「それって何ですか?」
あの〜、『立正安国論』のことですけど?
「『唱法華題目抄』には『一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし』と書かれていますよね?」
「すいません、その御書、私は知りません。初めて聞きました。」
あの〜、『唱法華題目抄』って旧版創価学会御書全集の最初の1ページに載っている御書ですよ? 1ページ目の御書さえ読んでいないんですか?
……とまあ、こんな感じで、議論にさえならない。御書を読んでいない。内容を知らない。執筆年次も知らない。前後の文脈を知らない。真蹟があるのかないのかさえ知らない。
それが日蓮の正統な門流と言えるのか、個人的には大いに疑問符がつきます。
ある創価学会幹部は「真筆があるかどうかは関係ない! 日蓮大聖人様の言葉として受け止める、その信心で拝するのです!」と言っていましたが、どう聞いても客観性のある議論とは思えません。それなら創価学会版に未収録の遺文なんて山ほどあるのに、なぜそれらは読まないのか、なぜそれらは未収録なのか、その基準は「信心」なのか?