気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日蓮遺文を知らない信徒たち。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて創価学会日蓮正宗、その他の大石寺系教団の信徒さんは、日蓮の真蹟ではなく偽書説濃厚なものばかりをやたらありがたがります。
日蓮の直筆、真蹟が存在しない、時代写本も存在しない、室町時代や江戸時代以降に知られるようになった文を「日蓮の思想」だと勝手に思い込んでいる姿は、無知蒙昧を通り越して滑稽でさえあります。
 
 
以前、とある読者から「日蓮真蹟はどれくらい有るんですか?」「日蓮の真蹟だけを読みたいです」という質問が来て、自分なりにまとめてみた記事があります。
 
 
日蓮の真蹟について」
 
 
私の知っているものだけで構成したので、だいぶ粗漏があろうかと思いますが、こういう勉強をさせて頂いたことはありがたかったです。
ただ問題は、このような日蓮の真蹟に関する等の研究が、逆に自動的に教団サイドから与えられるだけと考える信者ばかりになってしまったということではないでしょうか。
信者が自分たちで考えること、自分たちで学ぶことを失念してしまっているのかと思います。
 
 
例えば上記記事を読めばお分かりのように、創価学会版御書全集に未収録の遺文も多数あります。それらは読まないでも良いのでしょうか。
しかもそれでいて、偽書まがいの出所不明の文ばかりをありがたがって、それを読んで日蓮を知った気になっている人が大石寺系信徒には多いです。
例えば『御義口伝』『諸法実相抄』『生死一大事血脈抄』『総勘文抄』『阿仏坊御書』『一生成仏抄』『当体義抄』『百六箇抄』『本因妙抄』等々、偽書説濃厚な遺文ばかりを読んで、しかも知識は断片的。全く真蹟遺文に基づいた議論が信者はできなくなっています。そもそも「真蹟って何ですか?」と聞いてくる方さえ少なくありません。
 
 
試しに創価学会大石寺系信徒に、日蓮遺文に関する質問をするとよくわかります。
 
 
 
 
「『開目抄』の上巻には何が書かれていますか?」
「あ、私、御書よくわからなくて」
 
あの〜、『開目抄』ですけど?
 
 
 
「『立正安国論』には略本と広本の二つがありますよね?」
「それって何ですか?」
 
あの〜、『立正安国論』のことですけど?
 
 
 
「『唱法華題目抄』には『一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし』と書かれていますよね?」
「すいません、その御書、私は知りません。初めて聞きました。」
 
あの〜、『唱法華題目抄』って旧版創価学会御書全集の最初の1ページに載っている御書ですよ? 1ページ目の御書さえ読んでいないんですか?
 
 
 
……とまあ、こんな感じで、議論にさえならない。御書を読んでいない。内容を知らない。執筆年次も知らない。前後の文脈を知らない。真蹟があるのかないのかさえ知らない。
それが日蓮の正統な門流と言えるのか、個人的には大いに疑問符がつきます。
ある創価学会幹部は「真筆があるかどうかは関係ない! 日蓮大聖人様の言葉として受け止める、その信心で拝するのです!」と言っていましたが、どう聞いても客観性のある議論とは思えません。それなら創価学会版に未収録の遺文なんて山ほどあるのに、なぜそれらは読まないのか、なぜそれらは未収録なのか、その基準は「信心」なのか?
全く議論の噛み合わない人たちを大量生産してしまったのが、創価学会大石寺系教義の最大の問題でしょう。