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さて今回は法華経方便品における「正直捨方便」の一節についてです。
まず法華経方便品で、鳩摩羅什漢訳版の当該部分と、サンスクリット原典の当該部分を対照してみましょう。以下の画像は坂本幸男・岩本裕訳『法華経(上)』(岩波文庫、1962年)の128ページ(鳩摩羅什漢訳)と129ページ(サンスクリット原典訳)になります。
ご覧になられてわかるように「正直捨方便」にあたる言葉はサンスクリット原典の法華経には存在していません。あるのは「仏の息子たちの真中で教えを説き、かれらに「さとり」を勧めたのであった」と言う文章で、どこにも「正直に方便を捨て」とは書かれていません。「ためらう心をすべて捨てて」とあるのは、その前の節で「今我喜無畏」に対応した部分です。当然ですが「ためらう心」は「方便」の訳語にはあたりません。
この点に関して苅谷定彦氏の「羅什訳『妙法蓮華経』の問題点(3)」(『印度学仏教学研究』34巻2号所収、1986年)には次のように書かれています(763〜764ページ)。
「現行梵本によれば「我今喜無畏 於諸菩薩中 正直捨方便 但説無上道」に対応するところは「その時、私は無畏にして、歓喜し、躊躇の念を全く捨てて、善逝の子(菩薩)たちの真中で語る。そして彼らを覚りに向けて教化するのだ」とある。即ち、ここで菩薩に対して説かれたものは彼らをして正覚を得せしめる教説であり、即ち衆生の成仏を明かした大乗の教説であり、しかもそれは、すでに過去世に諸仏のもとで説法を聞いてきたものにのみ説かれたものであって、決して一切の衆生に説かれたものではない。」(同763ページ)
「このような『妙法華』をもって、『所依梵本』の等質等量の訳とすることができるであろうか。それよりは、羅什の二乗方便説という法華経観にもとづく意図的改竄の結果と見る方がより妥当ではないだろうか。」(同764ページ)