気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

嘱累品の位置は鳩摩羅什によって改竄・変更された。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さてTwitterで少し話題にしたところですが、鳩摩羅什漢訳の妙法蓮華経では、本来最後の章節である嘱累品が、鳩摩羅什の見解により恣意的に順番を変えられて改竄されています。
これはブログでも何度も書いてきたことですが、私的な見解ではなく、岩本裕氏、また中村元氏等の研究者に共通して見られる見解です。そもそも嘱累品が法華経原典で最終章であったことは、成立史研究からも既に定説なのです。
 
「二処三会は存在しない」
 
そもそも法華経「委任」(Anuparīndanā)の章は、サンスクリット原典も竺法護の正法華でも、また闍那崛多の添品法華でも最終章の27番目です。鳩摩羅什漢訳版のみ22章と薬王品の前に改竄されて移動されているのです。なお28でなく27章構成なのは元々見宝塔品と提婆達多品が一つの章であったためです。以下にサンスクリット原典と諸訳版との対応図を挙げてみますので、確認ください。上から3番目が鳩摩羅什漢訳の妙法華ですが、羅什版のみが嘱累品の位置が違うのです(『法華経』(上)岩波文庫版422〜423ページ)。

また法華経岩波文庫版の訳者である岩本裕氏は、注記において以下のように書いています。

「この章はサンスクリット原典では最後の第二十七章であるが、『妙法華』嘱累品第二十二に該当するので、〔二七〕の和訳をここに配置した。文献学的に見て、この配置が正しいというのではなく、ただ便宜的に妥協したにすぎない。(中略)なお、本章の末尾はある経典の末尾の一般的形式と同じであり、従って本章が『法華経』の末尾をなしていると考えるのが妥当である。すなわち、サンスクリット語原典ならびに『正法華』の形式が『法華経』として伝統的に正しいものであり、『妙法華』の章の配列には何か作為あるいは過誤が感じられる。」
(『法華経』(下)岩波文庫版404ページ)
 
きちんと岩本裕氏も嘱累品を最終節の27章としていることがわかるかと思います。しかも岩本裕氏は鳩摩羅什の嘱累品の配置に対して「何か作為あるいは過誤が感じられる」とその編集の恣意的な姿勢を批判さえしているのです。
 
また事実、文学博士で種智院大学名誉教授の苅田定彦氏も、嘱累品の移動は「羅什が経末にあったものを自己の見識に基づいて移動させた」ことを認めています。また当然のことながら、鳩摩羅什漢訳法華のみが嘱累品を神力品の次に接続することを「特異な形態」と呼んでさえいます。以下は苅谷定彦『法華経「嘱累品」考』(『印度学仏教学研究』22-1、111〜114ページ、1973年)からの引用です。

また鳩摩羅什が意図的に嘱累品の位置を改竄したため、鳩摩羅什訳の法華経では本来最終節ではない普賢品が最終節になってしまいました。そのままで終わるのが不自然になってしまったため、鳩摩羅什はここで意図的に「仏説是経時。普賢等。諸菩薩。舎利弗等。諸声聞。及諸天龍。人非人等。一切大会。皆大歓喜。受持仏語。作礼而去。」という一節を加えて、強引に終わらせてしまっているのです。サンスクリット原典の法華経には「作礼而去」等の部分は全く存在しません。ただ鳩摩羅什訳版のみに存在するのです。
 
「『作礼而去』について」
 
つまり鳩摩羅什漢訳版において、法華経は何らかの宗教的理由から原典の改竄が恣意的に行われ、無理矢理に薬王品の宿王華付嘱の前に上行への別付嘱があり、法華経がそこで閉幕したという曲解が為されるに至ったのです。それらの中国仏教の解釈を智顗や日蓮が踏襲してしまったのです。当時の時代的制約上、彼らにそれらを検証する術がなかったので仕方がなかったとしても、やはりそれは現代の私たちから見れば恣意的であり、誤りであるということなのです。