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大石寺6世日時の死後、7世日阿は「代官」として応永13年(1406年)6月4日に登座します。その後、8世として日影を呼ぼうとしますが、日阿は登座9ヶ月後の応永14年(1407年)3月10日に亡くなります。日影は相承を預かっていたという在家の柚野浄蓮から授かり、法主になる形をとります。この辺のことは以前もブログで書いたことがあります。したがって日阿や日影の行跡については、はっきりしない部分が多いのです。
「大石寺7世・日阿のこと」
さて日影の時代に、応永19年(1412年)に造立された板本尊が栃木県の平井信行寺に現存しています。
この板本尊は造立時期が特定できるものの中では大石寺門流内に現存する最古の板本尊です。楠木板に彫刻され、腰書きが下部余白に記載されています。これは弘安3年3月説の通称「紫宸殿本尊」の模刻になります。日影本人が模写をしたか、あるいは日影の許可を受けて第三者が写した紫宸殿本尊から板本尊に造立されたものと考えられます。日蓮真蹟とされる紫宸殿本尊の板模刻なのに、きちんと造立者である日影の名も刻まれています。
ここから考えても戒壇本尊の後世の偽作説の可能性が高いことが推察されるのですが、きちんと楠木で板に模刻され、日蓮の筆を籠抜きで模写した形跡の残る板本尊が平井信行寺に現存するなら、戒壇本尊の偽作時期は大石寺8世日影の時代と近接する可能性が高いことがわかるでしょう。なお戒壇本尊偽作者として疑惑のあがる大石寺9世日有は、8世日影の次の法主なのです。
「戒壇本尊が偽物である理由を列挙してみる」
「戒壇本尊の歴史上の最古の記録は」