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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

戒壇本尊が偽物である理由を列挙してみる。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて今回は今までブログで書いてきた「戒壇本尊が偽物である理由」を簡単に列挙してみましょう。
以下の画像は熊田葦城『日蓮上人』縮刷版(良書刊行会、大正5年)のものであり、細井日達氏の発言によれば、大石寺の正式な許可を得て撮影されたものです。

 
以下は全て私がブログで言及したことですが、気になる方は「はてなブログ」内に検索スペースがあるので、そこからブログ内検索をかけて読んでみるとよいかと思います。
これだけの根拠から、戒壇本尊は単なる後世の偽作であり、日蓮の名を騙った創作でしかないことはここで断言してもよいと思います。
 
 
 
・弘安2年造立説の戒壇本尊は、日蓮や日興の遺文に全く言及がない。
 
・日興の『三時弘経次第』や『原殿御返事』にも戒壇本尊への言及がない。つまり身延を離山するに際して日興は戒壇本尊について全く言及していない。
 
大石寺4世日道の『三師御伝土代』の弘安2年の項に戒壇本尊の言及は存在しない。
 
大石寺3祖日目の『申状』他、日目の遺文にも戒壇本尊の言及はない。
 
・日興書写本尊に戒壇本尊と同じ相貌をしたものは一体も存在しない。
 
戒壇本尊の相貌は『御本尊七箇相承』における書写の指示と異なる。
 
・『御本尊七箇相承』には「能く能く似せ奉るべし」と書写の指示がされているにも関わらず、戒壇本尊はこの相承の指示通りに書かれていない。
 
戒壇本尊と全く同じ相貌で本尊を書写した大石寺法主は一人も存在しない。
 
・「奉書写之」の文言は、日興や日目、日道、日行等、大石寺上代の本尊には見られない。
 
・『日興跡条条事』原本は日興筆跡と異なることが指摘され、文書には改竄の跡が残る。
 
・『日興跡条条事』に記された弘安2年本尊について、大石寺18世日精はこれを戒壇本尊ではなく、保田妙本寺蔵の万年救護本尊と解釈している。
 
・『聖人御難事』の「余は二十七年なり」は文字通り難を受けてきて27年目の意味であり、戒壇本尊が書かれたとする根拠にはなり得ない。
 
・『聖人御難事』の「余は二十七年なり」を「弘安2年に出世の本懐を遂げた根拠」と曲解したのは大石寺56世大石日応であり、日応以前に『聖人御難事』を出世の本懐が弘安2年とする依文とした人物は存在しない。
 
・『聖人御難事』執筆の日付は弘安2年10月1日であり、戒壇本尊造立説の日付より前の日付である。
 
・『伯耆殿御返事』によれば、弘安2年10月12日に日興は日蓮のところにはいなかった。また同抄は弘安2年10月12日の日付で日興に送付されたものなのに、戒壇本尊のことが全く言及されていない。
 
・犀角独歩氏の解析によれば、戒壇本尊の首題の文字は弘安3年日禅授与本尊と形が一致する。
 
北山本門寺6世日浄の『日浄記』によれば、大石寺9世日有が「未聞未見の板本尊」を彫刻偽作したことが記録されている。
 
大石寺9世日有の『新池抄聞書』で、歴史上初めて日有によって大石寺に本尊堂があること、大石寺の本尊堂が「事の戒壇」であることが示される。
 
戒壇本尊という呼称は大石寺14世日主まで大石寺では全く用いられない。日主の代になり、初めて「本門戒壇御本尊」という言葉が用いられる。
 
大石寺66世細井日達の発言によれば戒壇本尊は半丸太形の木だが、重さが推定数百キロであり、身延の険しい山中から日興が数百キロの重量の戒壇本尊を降ろして大石寺に運ぶことは不可能である。
 
細井日達の発言によれば戒壇本尊は身延の本堂に安置されていたとするが、本堂にあるなら誰もが見ていた筈なのに、六老僧他当時の弟子たちの文献に戒壇本尊は全く出てこない。
 
戒壇本尊が他山の文献に出てくるのは保田妙本寺日我など、室町時代以降のことである。
 
大石寺4世日道の『三師御伝土代』の「日興」伝の最後の「図し給う御本尊」の讃文は「仏滅後二千二百三十余年」と書かれており、戒壇本尊の「仏滅後二千二百二十余年」と相違している。
 
大石寺ではなぜか10月12日に記念の行事は行われない。したがって大石寺は「10月12日」を公式に記念日と定めてはいない。
 
大石寺48世日量によれば日法は戒壇本尊彫刻の功績から阿闍梨号を賜ったとされるが、日興の弘安5年の『宗祖御遷化次第』で日法は「和泉公」と記され、阿闍梨号で書かれていないこと。
 
・日法彫刻の最初仏について、大石寺48世日量は「(日蓮が)我貌に似たりと印可し給ふ所の像なり」としているが、日興の『富士一跡門徒存知事』では日蓮御影について「一つも似ているものがないが、正和2年日順の像だけは日蓮の面影がある」と述べており、矛盾する。
 
戒壇本尊は半丸太形で台座に嵌めて置く形状をしているにも関わらず、『日興跡条条事』では弘安2年の本尊について「相伝之可奉懸本門寺」と書かれており、「懸け奉るべき」としていること。
 
日蓮は重要な遺文や本尊には必ず「干支」を記したが、戒壇本尊に「干支」は全く書かれていない。
 
・重須(北山本門寺)学頭の三位日順は『本門心底抄』で「本門の戒壇」を語る部分で「仏像を安置することは本尊の図の如し」として戒壇本尊について全く言及していないこと。
 
・下条妙蓮寺5世日眼の『五人所破抄見聞』では本尊の讃文に「二千二百三十余年」と書かれているものが「肝心」であるとしており、「二千二百二十余年」と書かれている戒壇本尊に全く触れていない。
 
・現在の大石寺には客殿から戒壇本尊に対する「遥拝勤行」の化儀が残されているが、そもそも客殿の創建は寛正6年(1465年)であり、それ以前に客殿は存在しなかったこと。
 
・日興は重要な本尊に対して「本門寺重宝」「本門寺に懸け奉るべし」と脇書を多く残しているにも関わらず、戒壇本尊には全く書かれていない。
 
 
 
 
他にも多くの点で論じることができるかと思います。が、これだけ見ても戒壇本尊が後世の創作であり、偽作でしかないことはもはや揺るがないと私は思います。