気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

弘安2年は日興が万年救護本尊を賜った年である。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今回は大石寺戒壇本尊の根拠とする、大石寺文書『日興跡条条事』についてです。
実はこの『日興跡条条事』は、大石寺9世日有の時代、少なくとも文明8年(1476年)までは、現在に伝わる姿では成立しておらず、複数の案文が並存したことがわかっています。
 
「『日興跡条条事』は今日伝えられる形で成立していなかった」
 
上記記事をお読み頂ければわかる通り、そもそも日有の『連陽坊雑雑聞書』と『日興跡条条事』とで案文の各表現が異なっていまして、複数の草稿を元に『日興跡条条事』が後世に偽作された可能性が高いことがわかるかと思います。
 
加えて今回指摘したいのは『日興跡条条事』の「案文」の存在です。事実、大石寺59世堀日亨氏は『富士宗学要集』で『日興跡条条事』の本文に「正本案文共に総本山に現存す」(『富士宗学要集』8-17ページ)と前書きを書いているのです。
この案文の画像については、金原明彦氏の『日蓮と本尊伝承』(水声社、2007年)で公開されています。

 
さてこの『案文』中で、弘安2年の大御本尊という表記はどのように書いてあるのでしょう。具体的に示してみます。

「日興カ当身所給弘安貮年所給大本尊日興並弘安五年二月廿九日御下文一期之後日目授与之」
 
と書かれています。
これは「日興カ当身弘安貮年所給大本尊日興一期之後日目授与之」と当初書かれていたものに加筆をして「日興カ当身所給弘安貮年所給大本尊日興並弘安五年二月廿九日御下文一期之後日目授与之」と書き直されていることがわかります。
 
さてここから判断するに、最大の問題は、ここで大御本尊に関する記述が「弘安2年に給わる所の大本尊」と書かれていることです。
「弘安2年に給わった所の大本尊」なのであれば、弘安2年はあくまで日興が本尊を給わった年であって、本尊書写・造立の年ではないことになります。
そうなると「日興が弘安2年に給わった大本尊」とは実は戒壇本尊ではなく、保田妙本寺に現存する「万年救護本尊」である可能性が高いことになります。
事実、万年救護本尊が日蓮から日興に与えられたとする伝承は大石寺に現存しているのです。18世日精の『家中抄』には「弘安二年に三大秘法の口決を記録せり、此ノ年に大漫荼羅を日興に授与し給ふ万年救護の本尊とは是レなり、日興より又日目に付属して今房州にあり」(富要5-154ページ)と記されています。また「此年十二月に万年救護の本尊之を図し日興に給ふ」(同4-149ページ)とも書かれています。

実際、日蓮正宗もこの日精の見解を否定することができず、『富士年表』でも弘安2年に日興が万年救護本尊を給わったことを公式に認めてしまっているのです。以下は富士学林発行の『富士年表』の「弘安2年」(1279年)の項ですが、明確に1279年(弘安2年)に日興が万年救護本尊を賜ったことが記録されています(『富士年表』45ページ、富士学林、平成2年増訂版)。

というわけで、弘安2年に日興が賜った大本尊とは、保田妙本寺に現存する万年救護本尊であった可能性が高いことになります。事実、万年救護本尊は日蓮筆で「大本尊」と書かれている唯一の本尊になります。
従いまして、大石寺は『案文』中、日興が日蓮から弘安2年に万年救護本尊を賜った記録を改竄の上、複数の文書を接合して『日興跡条条事』を偽作し、戒壇本尊の権威化を図ったことが容易に推察されるかと思います。