いつもみなさん、ありがとうございます。
さて『御本尊七箇相承』には「日興は浪の上にゆられて見へ給ひつる処の本尊の御形なりしをば能く能く似せ奉るなり。仍つて本尊書写の事・一向日興之を書写し奉る可き事勿論なるのみ。」という文が存在します(富士宗学要集1-33ページ)。
まず初めは大石寺3祖日目です。
具体的に2体の本尊を紹介しましょう。
1体目は正中3年卯月書写本尊(小泉久遠寺蔵)です。
次に2体目が元弘3年10月13日書写本尊(柳目妙教寺蔵)です。
具体的に言うとたくさんありますが、思いつくままに書いてみます。
日蓮書写本尊では、建治元年以降、弘安期に入り、鬼子母神と十羅刹女は首題「妙法蓮華経」の「蓮」の字の左右に控える位置になっていきます。確かに弘安2年造立説の戒壇本尊も、首題に寄り添う形で両者の勧請がされています。
にもかかわらず、日目書写本尊で「鬼子母神」と「十羅刹女」は、一番外側に書かれており、弘安期の本尊の形式とも、また戒壇本尊の形式とも異なっているのです。日目書写本尊で両者は「天照大神」と「八幡大菩薩」のさらに外側に配置され、戒壇本尊が当時存在していた形跡など微塵も感じさせません。
2、大龍王が書かれない。
4、「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」の二つが書かれている。
「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」の二つが両者ともに書かれているのに、戒壇本尊にはこれらの釈要文は書かれていない。
5、帝釈天の書き方が一貫していない。
正中3年書写本尊では「釈提桓因王」なのに、元弘3年書写本尊では「釈提桓因大王」とあり、一貫していない。ちなみに戒壇本尊の勧請は「釈提桓因大王」である。
次回は大石寺4世日道や5世日行等、それ以降の歴代の書写本尊も順次可能な限り紹介してみたいと思います。
参考文献
柳澤宏道『石山本尊の研究』(増補版)、はちす文庫、平成25年。