いつもみなさん、ありがとうございます。
さて興風談所発刊の『日興上人御本尊集』を読むと、日興がいかに日蓮真蹟本尊を厳密に正確に書写しているかがわかります。
日蓮真蹟本尊は、その執筆年代により、座配や全体の形が少しずつ変わります。そしてそれを日興ほど厳格に学び、正確に写している人は門下では他にいないでしょう。
その日興書写本尊で閲覧可能なものを全て見ましたが、その中で戒壇本尊と同じ座配の本尊は一体も存在していないのです。
つまりこのことは、戒壇本尊は後世に造立されたものだと言うことを雄弁に物語っていると思います。
これはとりもなおさず「法主の書写する本尊は戒壇本尊の写しである」という教義自体がそもそも後付けに過ぎず、大石寺には「戒壇本尊を書写する唯授一人の相伝」などと言うものは当初からなかったということになろうかと思います。
最初の1体目は、暦応元年10月13日書写で、宮野妙円寺蔵のものです。
次の2体目は、全く同じ日付の暦応元年10月13日書写で、柳目妙教寺蔵のものです。
次に2体の特徴と戒壇本尊との相違を具体的に述べてみましょう。
1、「鬼子母神」と「十羅刹女」は弘安期の日蓮書写本尊では、中央首題に寄り添うように書かれる。特に戒壇本尊は「蓮」の字の隣に書かれているが、柳目妙教寺蔵日道本尊は「経」の左右に両者が書かれており、宮野妙円寺蔵日道本尊は「経」の更に下の下部に書かれている。
3、戒壇本尊に書かれていない、釈要文の「有供養者福過十号」と「若悩乱者頭破七分」が日道本尊には書かれている。
5、「奉書写之」の文字が書かれていない。
私のような素人目でも明らかに相違が散見されます。
ということは、大石寺にはそもそも「戒壇本尊を書写する」という教義が当初から存在していたわけではないということになります。そして歴代法主には、戒壇本尊を正確な形で書写するものが全くいないことがわかってきます。