気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

左京日教の代には既に板本尊は偽作されていたか。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて大石寺奉安堂蔵の弘安2年造立説の「戒壇本尊」は後世の偽作の可能性が高いことは、このブログで何度も指摘しています。



「弘安2年の戒壇本尊は日蓮の造立ではない」

「御座替本尊は戒壇本尊の書写ではない」

「日興書写曼荼羅戒壇本尊との相違」

戒壇本尊の重さ」



さてこの戒壇本尊は、時期的にいつ頃偽作されたのでしょう。
個人的には大石寺9世日有の時代が最も可能性が高いと考えられます。



『百六箇抄』(偽書説濃厚)の末尾の加筆には「日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり」(創価学会版御書全集869ページ)と書かれ、同抄の同文が偽作・加筆された時点でなんらかの中心となる本尊が存在していたと考えるのが自然かと思います。



この『百六箇抄』末尾の加筆部を、日有門弟である左京日教が著作中で引用しています。日教はほぼ同文で「日興嫡々相承之漫荼羅以可為本堂之正本尊」と書いています(富士宗学要集4-43ページ)。

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左京日教の『六人立義破立抄私記』は延徳元年(1489年)の著作であり、1489年というのは、大石寺9世日有が亡くなって(1482年)7年後のことです。大石寺は12世日鎮の代であり、日鎮はまだ当時若干20歳になります。
1489年の『六人立義破立抄私記』で書かれた「本堂の正本尊」が仮に「戒壇本尊」を指していると仮定すると、この発言が出てくるためにはそれ以前、すなわち9世日有の代に戒壇本尊が「偽作」されていないと筋が通らないことになります。



とすると、以下の仮説が考えられます。


1、大石寺9世日有は戒壇本尊を偽作したが、日有は「事の戒壇」と呼び、それをまだ「戒壇本尊」と呼ぶ教義は大石寺には当時存在しなかった。

2、日有の門弟である左京日教は日有が偽作した本尊を「日興嫡嫡相承之曼荼羅」と呼び、「本堂之正本尊」と規定して日鎮の代に大石寺教学の補完を図った。

3、大石寺14世日主に至って、日有偽作の本尊を「本門戒壇御本尊」と呼ぶ教義が定式化された。



追記
『百六箇抄』が偽作されたのは末尾の加筆に「日尊」等とあることから京都要法寺系とも考えられます。したがってここで述べている「本堂の正本尊」は元来、大石寺の本尊ではなく京都要法寺の根本本尊を指しているという推察も可能でしょう。
ただ『六人立義破立抄私記』の頃の左京日教は、すでに大石寺に帰伏後なので、ここでの左京日教の考える「本堂の正本尊」が「戒壇本尊」であったという仮定の上で気楽非活は書いています。ご了承くださいませ。