気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

天皇建立の本門戒壇堂という教義。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて今回は本門戒壇堂という、かつての大石寺の教義についてです。



もともと、池田大作は、昭和39年(1964年)5月3日、第27回本部総会の席上、正本堂の建立の発議の後、「後は本門戒壇堂の建立を待つばかりになります」と発言しています。


正本堂の意義づけ」


その後、昭和40年(1965年)2月16日、大石寺大講堂での第1回正本堂建設委員会の席上、大石寺66世の細井日達正本堂広宣流布の時にそのまま戒壇になる旨の説法をしたことにより、その教義が変わったことになります。



では創価学会が出てくる昭和より昔、本来の大石寺の教義ではどのように考えられていたのでしょう。
具体的に大正2年(1913年)発刊、荒木清勇『増補日蓮正宗』から見てみましょう。なお荒木清勇氏は当時の法華講総講頭であり、この著作には大石寺56世日応(日應)による序文が付されています。


「此一大秘法の御本尊則大曼荼羅を、宗祖は弘安二年十月十二日に、末法万年の為にとて、樟木板に顕はし給ひ、日本乃至世界中の順逆二縁の一切衆生に授与し給ひて、出世の御本懐を遂げさせ給うたのである、此大曼荼羅が一天四海広宣流布の時、皇帝陛下の御建立し給う、本門戒壇堂に奉安せられ給ふ、本門戒壇の大御本尊である」
(荒木清勇『増補日蓮正宗』45〜46ページ、興門資料刊行会、平成13年覆刻版、原著大正2年




読めば一目瞭然で、法華講総講頭が時の法主日応の裁可の下、本門戒壇堂の教義について述べています。ここでは本門戒壇堂はきちんと「一天四海広宣流布の時」「皇帝陛下[天皇]の御建立し給う」べきと書かれています。

つまりこれが本来の大石寺の教義だった筈です。本来、本門戒壇堂は天皇の発議により建立されるべきものだったのです。それが正本堂建立の過程で細井日達の発言により、戒壇本尊は広宣流布の時も常に本堂に安置されるべきと変更されました。
それなら、もう日蓮正宗創価学会から離れた訳ですから(また正本堂も既に解体されたことですから)、伝統ある本来の教義に戻して「広宣流布の時、天皇の建立するところの本門戒壇堂に戒壇本尊は将来的に安置されるべき」と教義を元に戻すべきなのではないでしょうか。
まあ66世法主細井日達から変わってしまったことなので、今さら過去の法主の発言を変えられないのかもしれませんが、節操なく教義を変えてきた歴史を反省して、伝統ある宗派として元に戻すのが筋なのではないかと思ったりします。その時その時で違うことを言うのなら、大石寺相伝の信用性はますます下がるだけのように思います。