いつもみなさん、ありがとうございます。
さて大石寺の教学の基礎を作ったのは、日寛とされます。
日寛『六巻抄』は大石寺教学の基本になっています。
ただ文献を丹念に読むと、日寛に多大な影響を与えたのは実は18世の日精だということがわかります。
先日の記事で、敬台院と日精の確執のことを書きましたが、敬台院がどちらかというと京都要法寺流の仏像建立を容認するような教義なのに対し、日精の教義は大石寺の金口一人の血脈相承を強調したり、御影堂を本門戒壇堂としたりして、大石寺自体の特殊性・優位性を殊更に強調するようなものでした。
「敬台院と日精の確執。」
細草檀林は大石寺派と八品派等が共同で学ぶような談所となります。敬台院としては細草檀林を開設することで、日精よりの教義に染まった大石寺を、自身の菩提寺として取り戻しておきたかったというのも大いにあったろうと思います。
「八品派と細草檀林」
大石寺48世日量は、日寛を師匠と仰ぐ弟子の一人ですが、日量の『日寛上人伝』には以下のように書かれています。
「師大に悦び翌日佐兵衛と倶に常在寺に詣でて日精上人(本山十八祖隠居して江戸に出で常在寺を創む今年八十四歳遷化の年の夏なり)、の説法を聴聞して宿善薫発し疑氷忽に釈け随喜信伏す、」
(日量『日寛上人伝』富士宗学要集5-354〜355ページ )
「日精を尊崇していた日寛」
このように日精の講義に触れて感銘を受けて信仰の道に入り、日精を生涯にわたって尊敬していた日寛でしたが、日寛によって現在の大石寺の教学が完成したと言っても過言ではありません。そしてそれは敬台院の考えた要法寺流や八品派のようなものではなく、もっと日精の考え方に近い、大石寺自体の特殊性を強調するもので、依義判文だったり、血脈相承などを強く主張するものに変貌していくことになります。
ところで、日精の教義を説明する際に先日の「敬台院と日精の確執」で、『日隠書』を引用しました。ここでもう一度取り上げてみます。
「此外に三鳥宗門といえるあり、此宗門は内證事にて表立たざる邪法なり(中略)
日秀沼田談林にて能化を勤め、三鳥院と云ふ。かくて談林万事相すみ一時に改宗して大石寺に帰入す。兼て精師も其約束也。
尓るに精師大石寺現住の折から三鳥院を歴代にもなすべきかと思召あれども盈師も得心し玉はず、又役者も檀頭も合点せず叶はず重なり、故に能化浪人にて住居に難儀し、江戸へ出て借宅して己情の邪義を弘通して大石寺の一大事の金口は日精より我相伝せりなり云て妄語を構へ日蓮の名字を汚せり」
(「日隠書」『山居院』所収、23〜24ページ、沼津市明治史料館、2000年)
三鳥派の教義とはどういうものでしょう。
私も無知にしてさして知らないのですが、「三鳥」とは「三超」とも書き、大石寺第3祖日目を特別な存在として扱う立場です。
今の創価学会員さんはほとんど知らないことかと思いますが、広宣流布の時の法主は大石寺3世日目の再誕とされるのです。客殿で行われる「丑寅勤行」に参加した方ならわかると思いますが、日蓮と日興の御影が本尊の左右に置かれるのに対して、導師を勤める法主は本尊に正対せず東向きに座る形になっています。つまりあの客殿の法主の位置は「一閻浮提御座主」の位置に当たるのです。
「日目再誕説」
日目再誕説は現在の大石寺の教義では異端でも何でもなく普通のものになっています。
思うに日精を尊敬していた日寛は、日精の教義から少なからず影響を受けます。そして細草檀林で八品派の教義、とりわけ御義口伝等、八品派由来の写本が残っている教義を摂取し、それにより大石寺の独自性を大きく強調するような教義形成をしていったと考えられます。つまり日精の教義の実質的な完成者が日寛であったのだと私は思います。