いつもみなさん、ありがとうございます。
「日精教義の完成者としての日寛」
この中で少し書いたことですが、三鳥派という異流義が日精門流の三鳥院日秀から出てきたことがわかります。
つまり敬台院と日精の確執は、恐らくは京都風に自身の菩提寺として仏像を建立していきたい敬台院の意志を日精が追認していたところを、徐々に大石寺独自の教義性を発揮していくところとなり、そのことにより、敬台院と日精の確執は決定的なものになったということです。
「右三鳥院と申すは是又中年剃髪の僧にて寛永の頃本山拾八代日精上人師下谷常在寺御取立の為本山を十九代日舜上人へ譲り江戸へ出で説法教化の刻、三鳥此を聴聞帰伏得道し御弟子と成り御経御書判等の習学四五年御随身の処法義に違背の義之有り勘気を受け門中放に相成り、夫より自ら三鳥院日秀と号し江府は勿論在々処々相模伊豆駿東辺弘通信仰の者数多出来に付き、」
(日量「金沢信徒に送りし状」より抜粋、『富士宗学要集9-220ページ)
長くなるため、文途中で切りましたが、画像でもご確認頂ければと思います。