気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

三鳥院日秀は大石寺日精の弟子。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて以前に私は大石寺18世・了玄日精のことを書いています。日精は大石寺26世堅樹日寛の師匠にあたる人物であり、かつては中興の祖の一人とされていました。



「日精教義の完成者としての日寛」



この中で少し書いたことですが、三鳥派という異流義が日精門流の三鳥院日秀から出てきたことがわかります。
つまり敬台院と日精の確執は、恐らくは京都風に自身の菩提寺として仏像を建立していきたい敬台院の意志を日精が追認していたところを、徐々に大石寺独自の教義性を発揮していくところとなり、そのことにより、敬台院と日精の確執は決定的なものになったということです。



この三鳥派のことを、大石寺48世の日量が書いている書状が大石寺の雪山文庫に現存しています。少し紹介してみましょう。



「右三鳥院と申すは是又中年剃髪の僧にて寛永の頃本山拾八代日精上人師下谷常在寺御取立の為本山を十九代日舜上人へ譲り江戸へ出で説法教化の刻、三鳥此を聴聞帰伏得道し御弟子と成り御経御書判等の習学四五年御随身の処法義に違背の義之有り勘気を受け門中放に相成り、夫より自ら三鳥院日秀と号し江府は勿論在々処々相模伊豆駿東辺弘通信仰の者数多出来に付き、」
(日量「金沢信徒に送りし状」より抜粋、『富士宗学要集9-220ページ)



長くなるため、文途中で切りましたが、画像でもご確認頂ければと思います。

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すなわち三鳥派とされる異流義が、大石寺18世の日精の弟子から出たことは、大石寺法主である48世の日量も認めており、そのことはきちんと大石寺文書として残されているということになります。