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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日精と日舜。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、大石寺の唯授一人の血脈相承というものは、史料を丹念に見ていくと何度か切れていることがわかります。このことはブログでもよく書いています。



大石寺7世・日阿のこと。」

「理境坊日義の預かり相承。」

大石寺を隠居した18世日精。」



上記の「大石寺を隠居した18世日精。」にも書いたことなのですが、日精は大石寺を隠居しています。
これには敬台院と日精との関係が悪化し、日精が大石寺を擯斥されたという史実があります。
詳しくは以下の敬台院についての記事を読まれるとよいでしょう。



「敬台院と日精のこと。」



日精がこれにより下谷常在寺に隠居したことは、大石寺48世日量、52世日霑の文書からも明らかです。両文書はこの間、大石寺が「当山無主」として血脈が断絶していたことがわかります。この間、血脈相承はされていなかったのです。



そのことを次の法主に当たる、大石寺19世日舜がきちんと「書附」を残しています。この写本は大石寺に現存しています(日蓮正宗歴代法主全書2-329)。



「京都要法寺ニテ出家、江戸上行寺ヘ出入ス。上總沼田談林ニテ勤学、其節了玄ニ(十八代精師之事)被頼敬台院様御母儀法誉知鶴禅定尼(小笠原秀政室峯高寺殿)十七年忌萬事肝煎入、其上法詔寺ノ御建立御法事毎度御用相勤。然ル処日精本寺大石寺再興、日精両寺ノ住寺タリ。其後敬台院様ノ御意ニ背カレ両寺之ヲ退出ス。
一、其跡法詔寺ニハ日感住寺シ、大石寺無住ニテ一両年モ相過候御朱印改有リ、無住ノ寺エ御朱印被下間敷ノ由ニ付、大石寺衆檀敬台院様エ相願、日舜ヲ指図ニ依テ日感肝入ニテ当山へ入院、江戸へ下リ精師ニ面謁シ其後御朱印頂戴ス。
一、精師乙酉十月廿六日登山、同廿七日暁御相承並ニ住物御引渡シ之有リ。」
(日舜『書附』日蓮正宗歴代法主全書2-329ページ)



少し説明が必要かもしれません。
寛永18年(1841年)、寺請制度が改正されたため全国の寺を一斉に点検することになりまして、順次朱印を改めることになります。
江戸の常在寺に隠居していた日精は、表向きは大石寺の住寺でしたから敬台院よりも早くこの情報を掴み、朱印を取ってしまったことが推察されます。このことは富士宗学要集8巻所収等の敬台院の書状からも彼女の立腹した様子がわかります。
その後、敬台院の指示にて日舜が次の法主として推挙されますが、この時、相承は受けていませんでした。
このような事情があり、日舜が下谷常在寺に行き、朱印を頂くことになります。そしてその後、正保2年(1645年)10月27日に相承を受けることとなります。
つまりこの間、大石寺には法主不在期間が存在したことになります。



敬台院と日精の後の関係悪化については、その原因について上記引用の当ブログ記事を読んでいただいても良いのですが、これについてはもう少し調べてみたいと思います。