いつもみなさん、ありがとうございます。
さて原始仏典では執着から離れることをどのように説いているのか、今回はこの辺を『スッタニパータ』から考えてみたいと思います。
『スッタニパータ』514節には次のように説かれています。
「師は答えた、『サビヤよ。みずから道を修して完全な安らぎに達し、疑いを超え、生存と衰滅とを捨て、(清らかな行いに)安立して、迷いの世の再生を滅ぼしつくした人、--かれが〈修行僧〉である。」
ところで「生存と衰滅を捨てる」とありますが、これはどういうことでしょう。
「ここで釈尊の言われたことは、『欲望-執着-危難-苦』という図式にまとめられると思う。
私達には常に何かを求めてやまない欲望がある。何を求めるか、と言う対象のある欲望ではなく、何処までも求め続けてやむことのないという、どす黒い欲望、根源的欲望である。妄執といってもいいかもしれない。
妄執が具体的にはたらき出る時には、対象がなければならない。これがすなわち執着で、私たちが普通に欲望といっているのはこの執着のことといっていい。逆にいうなら、普通に欲望といわれているものを、釈尊は人間に生まれつき備わっている『根源的欲望』、『妄執』と、それが対象と結び付いて、具体的な欲望としてはたらきださせる『執着』とに分析して考えたのである。
そうするとここに『危難』が生ずるというのであるが、中村元教授の分析に依ると、その危難が、少し後の文献にバヴァ、つまり『生存』あるいは『有』としてあらわれるものである。『迷いの生存、輪廻の状態において生きていること』であり、哲学的な解釈をするなら『時間的に無常としてある』(和辻哲郎)ことだという。
つまり私の『生存』とは単に私が生命あるものとして存在している、ということではないのである。そういう物理的な意味でいっているのではない。自分の存在の意味をさぐり、右の図式のように妄執と執着とでなりたっているのが、私という存在なのだと理解したものである。その意味ではコスモロジーだといっていい。自分の存在をかく解釈し、そうとらえているのである。
その意味での私の『生存』があるからこそ、その根拠の上に苦があり、それの前提としての生がある。」
私は以前、ブログで「涅槃と浄土」について書きましたが、そこで書いたことも、そもそも涅槃=ニルヴァーナの実在に私たちは憧れますが、涅槃が存在することに憧れること自体が既に迷いなのであって、執着に過ぎないということなのです。
「涅槃と浄土」
正しい法が実在するとか、唯一の正しい本尊が存在するとか、正しい血脈の流れ通う正統の教団が存在すると信じたい気持ちは心情的に理解できますが、釈迦の教えはそもそもそのような真実の法の実在への「妄執」から離れることを、釈迦は説いていることになります。
おのれの知ることの範囲、すなわち十二縁起が六処の束にすぎず、そこへの執着から離れることを仏教は説いたのだということです。
実在に固執するものは、そもそも仏教の徒とは呼ばれないことになろうかと私などは思います。
参考文献