気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

涅槃と浄土





みなさん、いつも本当にありがとうございます。
当ブログは、だんだん最初の趣旨を離れて、今では私の信仰告白みたいになってきていますが、お付き合い頂いている方には改めて感謝申し上げます。


さて、私は既に日蓮信仰から離れて龍樹由来の念仏・浄土系思想の徒として日々学ばせて頂いていますが、今回のテーマは「浄土と涅槃は存在するのか」ということです。



結論から言いますと浄土も涅槃(ニルヴァーナ)も実体として存在するものではありません。
では何が信仰の本質なのか、これについてはまず最初に龍樹の『中論』を読み解いた中村元氏の言葉を引用してみたいと思います。



「われわれの現実生活を離れた彼岸に、ニルヴァーナという境地あるいは実体が存在するのではない。相依って起こっている諸事象を、無明に束縛されたわれわれ凡夫の立場から眺めた場合に輪廻とよばれる。これに反してその同じ諸事象の縁起している如実相を徹見するならば、それがそのままニルヴァーナといわれる。輪廻とニルヴァーナとは全くわれわれの立場の如何に帰するものであって、それ自体は何ら差別のあるものではない。
『中論』の帰敬序において、『八不、戯論の寂滅、めでたさ』が縁起に関していわれているが、これは元来ニルヴァーナに関して当然いわれるべきことである。しかるに縁起に関してこれを述べるのは、相関関係において成立している諸事象とニルヴァーナの無別無異なることを前提としているのである。
これは実に大胆な立言である。われわれ人間は迷いながら生きている。そこでニルヴァーナの境地に達したらよいな、と思って、憧れる。しかしニルヴァーナという境地はどこにも存在しないのである。ニルヴァーナの境地に憧れるということが迷いなのである。」
中村元『龍樹』297〜298ページ、講談社学術文庫、2002年)


浄土系思想においては浄土において達成される悟りこそがニルヴァーナ=涅槃であるとされますが、浄土系思想の祖である龍樹は、そもそもニルヴァーナというもの自体が存在しないことを指摘するんですね。
つまり涅槃というものは、われわれの生きている世界を、分別知の網から離れた視点で俯瞰することで初めて意識される境地であって、どこかに悟りがあると憧れる教えや浄土は存在しないということです。


実は同様のことを鈴木大拙氏も著作で指摘しています。


「此の世が苦しいから彼の土へ往きたいというは、真宗の本義ではない。日本的霊性の特異性ではない。これは通俗化し世諦化した信仰で、他力の真相ではない。それは貴族文化の残滓である。
浄土系の人のよく言う『地獄必定』とは、生死の彼方に在るのではない。浄土と同じように、どこか十万億土--浄土が西なら地獄は東かに在ると思ってはいけない。それは平安文化伝来の不徹底な思想である、地獄も極楽も此の土に在るとは言わぬが、此の土に対する認識不足からくる見方である。我らの考えが大地遊離的方向に進むと、そこに地獄も極楽もあるが、我らは大地そのものであることに気付くと、ここが直ちに畢竟浄の世界である。」
鈴木大拙『日本的霊性』59ページ、岩波文庫、1972年)


私はどこか別の世界に極楽浄土があることを信じません。
また宇宙のどこかに真実絶対の法とか真理があるとは考えません。そういうものを求めることこそが迷いなのであり、それらの実在を否定したのがまさに龍樹であったと私は考えています。龍樹はこのことによって説一切有部を批判し、第二の釈迦と呼ばれる存在になり得たのだと考えています。
本来の仏教とは、宗教的真実とか真理というものを求めても、所詮十二処・十八界の束を抜けることができず、それらへの執着から離れることを教えたことにその本質があるのではないでしょうか。