気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

一闡提について。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて今回は「一闡提」(いっせんだい)という言葉についてです。
この「一闡提」という語は『大般涅槃経』に出てくる語で、主に日蓮正宗創価学会系の信者たちの間では「正法を信じず、悟りを求める心がなく、成仏する機縁を持たない衆生」くらいの意味で用いられています。大石寺系信者たちの間では「自分たちの教えを信じない人間」を指す蔑称のように使われることも少なくありません。
 
日蓮はこの「一闡提」の語を普通に使います。主に『立正安国論』『守護国家論』『開目抄』『撰時抄』『報恩抄』『下山御消息』等の重要な遺文でも多用されていますから、正しく「一闡提」は日蓮が使っていた言葉と言えるでしょう。
 
ところでこの「一闡提」という語、奇妙なことですが、『法華経』には全く出てこない言葉なのです。具体的には『大乗涅槃経』『楞伽経』『宝性論』で説かれ、成立の遅い時期の大乗仏典にしか現れない語なのです。
 
事実、創価大学・国際仏教学高等研究所の辛嶋静志氏の論文(「一闡提(icchantika)は誰か」『創価大学・国際仏教学高等研究所・年報』第5号所収、2002年)でも、本来の原語の"icchantika"が「比較的成立の遅い如来蔵大乗仏典とMahāvyutpattiにしか現れない」とされています。

日蓮は『立正安国論』で「一闡提」の語を説明するのにやはり『大乗涅槃経』を引用しています。以下の画像は創価学会旧版御書全集の27ページからのものですが、やはり日蓮は「即ち涅槃経に云く」として「一闡提」を説明しているのです。

 
しかしながらこれらはあくまで日蓮が天台の五時八教判から『大乗涅槃経』を単純に「法華涅槃時」と盲信しているだけのことです。既に広く知られる通り、『法華経』の成立と『大乗涅槃経』の成立は全く別のことであり、両者を結び付ける文献学的な根拠は何一つありません。しかも「一闡提」の語は『法華経』中に存在しません。
 
もしも大石寺系信者たちが宗祖の日蓮を批判的に継承し得るとするなら、日蓮の五時八教判への過信について、日蓮その人を批判した上で『法華経』に基づかない「一闡提」の語を何の検討もせずに正しい教義であるかのように用いて他者への蔑称として使うことを見直すべきかと私などは思います。