気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

日蓮は末法の本仏ではない。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて今日は日蓮本仏説のお話の続きです。
日蓮佐渡以降、生涯にわたって、釈迦を本仏と捉えていたことは諸抄からも明らかなことです。『南条兵衛七郎殿御書』(真蹟:京都本隆寺現存)には「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏に・かぎりたてまつる」と明確に書かれています。
 
釈尊を本仏とする文証」
 
ところが、そんなことを言うと、反論してくる創価学会日蓮正宗系の信者さんがいます。
日蓮大聖人は『開目抄』で「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師)父母なり」と書かれているのだから、三徳を備えた本仏は末法では日蓮大聖人しかいないのではないか」という反論です。
 
答えを先に言ってしまうと、日蓮自身に主師親の三徳が備わると述べたのは、法華経を信じることで釈迦の三徳の一分が備わると考えていたことを示しており、別に日蓮が殊更に釈迦を越える本仏であったということを主張しているのではないのです。
 
「釈迦如来のたましい我が身に入り」
 
上記のブログ記事を読めばわかるかと思いますが、実際『撰時抄』では「仏の御使として」と述べつつも「日蓮は当帝の父母・念仏者・禅衆・真言師等が師範なり又主君なり」(創価学会旧版御書全集265ページ)と述べていまして、「仏の御使」と「主師親の三徳が備わる」ことが併記して書かれています。つまり日蓮法華経を信じて行ずる故に「三徳の一分を備えた」「釈迦如来の御使い」という二つの立場であることを認めているのです。
 
他にも『四条金吾殿女房御返事』(真蹟:京都恵光寺、丹後妙圓寺)では「法華経を持たせ給う人は一切衆生のしう(主)とこそ仏は御らん候らめ」(同1134ページ)と説かれています。

つまり「主師親」の三徳は法華経の行者全てにその一分が備わると言うことを日蓮が認めていただけのことで、日蓮はそれだからと言って別に自身を「釈迦を超える末法の本仏」などと見做していたことはありません。少なくとも日蓮真蹟からはそのような文脈を読み取ることはできないでしょう。
 
 
また日蓮の弟子である日興も『三時弘経次第』(日興真蹟不存、古写本は上条大石寺に現存)で、末法の富士山に立つべき「本門寺」の本仏を「久成釈迦仏」とし、日蓮を「付属弟子・上行菩薩日蓮聖人」と述べているのです。そして釈迦仏の垂迹神天照大神八幡大菩薩とされています(『日興上人全集』287ページ、興風談所、平成8年)。日蓮を本仏とすることなど、どこにも書かれていません。日蓮のみならず日興にも「日蓮本仏説」は存在しないのです。

日興の『三時弘経次第』に沿うなら、末法において建立されるべき「本門寺」はその本仏を「久成釈迦仏」とし、その垂迹神を「天照大神」「八幡大菩薩」とし、付属の弟子を「上行菩薩」「日蓮聖人」としなければならないことになります。
そもそも日興の『三時弘経次第』は大石寺法主の国家諫暁の際に必ず『申状』に添えられてきたものです。それを否定するなら、大石寺の歴史の否定になります。
 
大石寺歴代法主の国家諫暁に『三時弘経次第』は添付されている」