気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

教主釈尊より大事なる行者とは。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
 
さて私はこのブログで、創価学会日蓮正宗等、大石寺系教団の「日蓮本仏説」を批判しています。
 
釈尊を本仏とする文証」
 
「久成釈迦仏と付属の弟子」
 
「『種種御振舞御書』の改竄」
 
「久遠の釈迦の使い」
 
日蓮本仏説は後世の創作に過ぎない」
 
日蓮本仏説の萌芽」
 
「『一代五時鶏図』に示された釈迦仏の三徳」
 
「『御遷化記録』の遺言は釈迦立像と注法華経
 
「御本尊の手」
 
大石寺4世日道は、日蓮を本仏と考えていない」
 
大石寺の本仏説の変遷」
 
ところで、今日取り上げて考えてみたいのは、日蓮の『下山御消息』(真蹟は京都本圀寺他に散在)にある次の一文です。
 
「教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち」
日蓮『下山御消息』創価学会旧版御書全集363ページ)

 
日蓮正宗系や一部の古くの創価系の信徒らは、この文章を持ってきて「日蓮が自身を『教主釈尊より大事な行者』と呼んでいるのだから、日蓮は釈迦を超える末法の御本仏なのだ」と主張します。
噴飯ものの解釈なのですが、実はこの文はそういう意味ではありません。この「より」は古語で接続の意味を表す格助詞で「起点」や「〜から」等の出発点や経由の意味を表します。
すなわちここでの「教主釈尊より大事なる行者」というのは「教主釈尊から大事にされる行者」もしくは「教主釈尊から大事を授かった如来の使いとしての行者」というくらいの意味なのです。
事実、『下山御消息』には日蓮が自身を「主君の御使いなり」「経に云く『即如来の使なり』」(同355ページ)と書かれています。日蓮が自身を「釈迦の使い」と書いてあるのに、なぜ「日蓮が釈迦を超える仏」になってしまうのでしょう。
 
 
「それでも『より』には比較の意味があるはずだ」という反論もあるでしょう。
しかしそれは違います。現代の日本語では「より」のみで比較の意味を表しますが、古語では「よりも」や「よりは」と一つ言葉を加えて比較の意味として用いることが多いのです。古語辞典で「より」を引いてみるとわかります。「より」のみではそのほとんどは起点の意味になるのです。
例えば『更級日記』には「東路の道の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人」とありますが、ここでは「より」ではなく「よりも」と書かれています。そして明確に比較の意味で用いられています。
 
実際に日蓮の遺文から比較の意味で用いられている例を具体的に示してみましょう。「より」ではなく「よりも」「よりは」として使われることが多いことが確認できるかと思います。数字は全て創価学会旧版御書全集のページ数です。
 
 
法華経よりも弥陀の名号は」(2)
「第一の俗衆の毀よりも第二の邪智の比丘の毀は」(7)
「国王は臣下よりも人をたすくる人」(9)
法華経の余行よりも易きにこそと」(10)
「彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(24)
「善導・法然一切経・並に法華経をばおのれよりも見たりなんどの疑ひ」(114)
法華経大日経等よりも劣るか」(123)
「正像二千年の大王よりも後世ををもはん人人は」(260)
「父母・宿世の敵よりもいたくにくみ」(266)
「これよりも百千万億倍・信じがたき」(279)
「悪王悪臣よりも外道魔王よりも破戒の僧侶よりも、持戒有智の大僧の中に大謗法の人あるべし」(292)
「四味三教よりも円教は機を摂し」(339)
法華経誹謗の者は大地微塵よりもおほかるべし」(362)
「大地の微塵よりも多く」(440)
「爪上の土よりも少し」(440)
「一切の悪縁よりは悪知識を・をそるべし」(453)
「主君の恩の深き事・汝よりも能くしれり」(493)
「一眼の亀の浮木に遇うよりも難し」(494)
「骨は山よりも高けれども」(494)
「多生恩愛の涙は海よりも深けれども」(494)
「人間・閻浮の習は露よりも・あやうく芭蕉よりも・もろく泡沫よりもあだなり」(496)
「大地微塵よりも多く」(507)
「国王・大臣よりも末法の非人は」(512)
「犬・野干よりも・わろきようを」(556)
「権宗の大智よりも百千万倍勝れたる」(733)
「命根よりも惜き事なり」(749)
 
 
……多岐に渡るので、この辺で止めておきますが、ほとんどの場合「より」を比較の意味で用いる時は「よりも」または「よりは」として使われることが多いことがお分かり頂けたかと思います。それに当該の『下山御消息』でもきちんと「法華経誹謗の者は大地微塵よりもおほかるべし」と明確に「よりも」を用いています。同じ遺文の中で「よりも」と「より」を使い分けていますので、「教主釈尊より大事なる行者」は「日蓮が釈迦を超える末法の本仏」と言う意味で用いたのではないことになるでしょう。もし日蓮がそれを言うなら「教主釈尊よりも大事なる行者」と書かなければならない筈です。
 
 
 
追記
比較の意味で「より」が「よりも」や「よりは」にならずに、単独で使われている例は確かに存在はします。例えば『法華真言勝劣事』(真蹟不存)には「大日経阿含経より劣るか」(123)や「法華経大日経より劣の義存すべし」(127)などです。しかしながら900箇所以上の文例を一つ一つ見てみましたが、「より」のみで比較の意味として使われている例は圧倒的に少なく、そのほとんどが上に挙げたように「よりも」「よりは」になります。