いつもみなさん、ありがとうございます。
具体的に見てみましょう。
上の画像は同『香峯子抄』21ページのものですが、白木かねの母親が静脈炎という病気で苦しんでおり、ここで池田香峯子は「それで、隣の家の方が、母の体を心配して、入会を勧めてくださったのです。」と述べています。
昭和13年、私の二つ違いの弟・嵩が生まれ、私が3歳、弟が1歳を過ぎた頃、母(セイ)が、創価学会を通じて日蓮正宗に入信しました。その翌年には、父(編集室注=後の創価学会理事長・原島宏治氏)も母に説得されて入信しました。
入信してからの両親の布教活動は、子供の眼から見ても驚くべきもので、蒲田支部の基礎を作っていったのです。
さて、私の家の裏木戸をくぐると、そこは白木家の裏庭で、その家には私より三つほど年上の女の子がいて、名を「かね」といいました。その「かね」さんが、後に池田大作夫人となりました。
私の両親の折伏によって、この白木家の人々が皆、入信しました。昭和15、6年のことです。同じ頃、父の紹介で、教員仲間の小泉隆氏(創価学会最高顧問)、小泉氏の紹介で辻武寿氏(元公明党委員長)らが次々と入信しました。
「この、かね改め香峯子さんは、今から5年ほど前、『主婦の友』社から『香峯子抄』という本を出しましたが、それには私の母の名は消されて、代わりに「隣の家の方が、母の体を心配して、入会を勧めてくださったのです」と記してあります。
「母の体を心配して」とあるのは、当時、かねさんの母・静子さんが静脈炎という難病に罹っていたことをいいます。静子さんは、それまで8年間も静脈炎で苦しんでいたそうです。しかし、入信後、しばらくして、その難病が完治するという功徳を受けたのです。
夫の白木薫次さんは、昭和37年6月14日付の『聖教』紙に次のような感謝の言葉を述べています。
「私の福運の一つは蒲田の自宅の隣が、戦前、原島理事長宅であったことです」と。『聖教』紙は当時の状況を解説して、
「当時、蒲田方面で座談会があると、たいてい白木さん宅が会場になった。牧口先生もしばしば見えられた。そして一年早く入信していた原島さん、小泉隆さん、辻武寿さんの蒲田の三羽ガラスといわれた人たちがいつも白木さんのまわりにいて、白木さんの信心を守っていた」
と記しています。」
(同128ページ)
これを見てわかるように、白木家を入信に導いたのは、当時の原島宏治氏とその妻の原島セイだったということです。しかしながら池田香峯子氏は『香峯子抄』において頑ななまでに、その事実を隠そうとしているように見えます。
なぜ白木家が原島家によって入信した事実を隠そうとするのか、その動機が不明瞭ですが(そもそも原島昭氏の証言を読む限り、白木薫次氏ら白木家と原島宏治らは強い信仰の関係で結ばれていたことが伺えます)、少なくともここで池田香峯子氏、あるいは主婦の友社編集室は原島宏治氏らの功績を隠そうとしているように、私の目には映ります。