いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は法華経の宝塔についてです。
法華経見宝塔品にはそんなことは書かれていません。単に巨大な宝塔が出現して多宝如来が法華経の正統性について証明をするために宝塔が出現したと言うだけなのです。つまりそれ自体を「生命の尊厳の比喩」とすること自体が拡大解釈に他なりません。
『阿仏坊御書』では「阿仏坊さながら宝塔」と呼び、法華経の行者を宝塔とします。
『日女御前御返事』で「宝塔」は「日女御前の御胸の間・八葉の心蓮華の内におはしますと日蓮は見まいらせて候」と書かれます。
『御義口伝』で「宝塔」は「一心の明鏡」とされています。
ところが、この『阿仏坊御書』『日女御前御返事』『御義口伝』のどれも日蓮真蹟不存、同時代の古写本も不存であり、偽書の疑いの強いものです。つまり日蓮真蹟からは「宝塔が生命」と言う解釈を見出すことができないのです。
具体的に示してみましょう。
例えば『開目抄』(真蹟身延曽存)で「宝塔」は明確に「天中に懸りて宝塔の中より梵音声を出して証明して云く」(創価学会旧版御書全集194ページ)と述べられており、諸仏が広長舌を出して法華経の正しさを証明したことしか書かれていません。
『観心本尊抄』(真蹟中山現存)でも宝塔品に言及されますが、ここでは「宝塔」中の妙法蓮華経とその諸尊等が「本尊の為体(ていたらく)」(同247ページ)とされているだけで、それが法華経の行者の五体だとか心だとか、そんなことは全く書かれてはいないのです。
『報恩抄』(真蹟身延曽存、池上他に散在)でも「宝塔」は単に「一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行等の四菩薩脇士となるべし」(同328ページ)とされるだけで、殊更に宝塔を何か別のものに比喩として言い換えることを日蓮はしていないのです。
その他、日蓮真蹟中の「宝塔」の用例は、『法華取要抄』『本尊問答抄』『顕仏未来記』『新尼御前御返事』『種種御振舞御書』『寺泊御書』『曾谷入道殿許御書』『兵衛志殿御返事』(建治元年11月)『瑞相御書』『千日尼御前御返事』『千日尼御返事』『祈祷抄』『薬王品得意抄』に存在しますが、上記の16編の真蹟遺文全てを見ても「宝塔」を「法華経の行者の五体」「一心の明鏡」「生命の尊厳の比喩」とするような用例を見出すことはできません。
追記
真蹟不存ですが、日蓮の開宗以前の習作とされる『戒体即身成仏義』には「されば多宝の塔と申すは我等が身、二仏と申すは自身の法身なり」(昭和新修15〜16ページ)と書かれています。同抄は真言、また中古天台の密教の影響の残る著作であり、録内の同抄を真蹟と判断するなら、「宝塔を一身の当体の比喩」とする思想は密教の思想になるかと考えられます。事実『阿仏坊御書』で「五体」を「地水火風空」の五大に配する思想は、覚鑁の『五輪九字妙秘密義釈』の密教思想です。なお『戒体即身成仏義』は創価学会版御書全集には収録されていません。