気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

『阿仏坊御書』における「出世の本懐」

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて大石寺系教団では「出世の本懐」を、弘安2年造立説の戒壇本尊のことと言い張ります。
このブログでは、そもそも戒壇本尊自体、日蓮作ではない、後世の造立でしかないと判断しています。そして日蓮や日興の遺文から「出世の本懐」というものが「弘安2年戒壇本尊」を指しているわけではないことを繰り返し述べています。
 
 
日蓮出世の本懐は『南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成如来の画像』である。」
 
「『余は二十七年なり』って。」
 
 
「出世の本懐」を「弘安2年戒壇本尊」と結びつけるのは、論理の飛躍、拡大解釈でしかありません。そもそも日興は『原殿御返事』で日蓮の出世の本懐を「南無妙法蓮華経教主釈尊久遠実成如来の画像」と述べています。
 
 
ところで、この「出世の本懐」という言葉、『聖人御難事』以外の日蓮遺文には現れない表現なのでしょうか。
実はこの「出世の本懐」という言葉は『阿仏坊御書』(真蹟不存、真偽未決)に出てくるのです。

 
 
「あまりに・ありがたく候へば宝塔をかきあらはし・まいらせ候ぞ、子にあらずんば・ゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり。」
日蓮『阿仏坊御書』創価学会版御書全集1304ページ)
 
 
日蓮が書き表した宝塔をさして「出世の本懐」と述べています。
とすると日蓮が「出世の本懐」とするのは「宝塔」であり「日蓮が書いた宝塔」ということになります。
とすると一つの矛盾が生じます。この『阿仏坊御書』は真蹟不存ですが、述作年代は文永9年とされています。

 
 
文永9年(1272年)は日蓮佐渡にいた時期であり、弘安2年(1279年)より7年も前になります。
とすると『阿仏坊御書』を日蓮真蹟と判断するなら、日蓮は弘安2年以前、文永の時期に自分が書いた宝塔、すなわち曼荼羅本尊を日蓮自身が「出世の本懐とはこれである」と述べていることになってしまいます。
弘安2年戒壇本尊ではなく、文永期の本尊が「出世の本懐」だと日蓮が述べていることになるわけですから。
 
 
最近の創価学会日蓮正宗の信者さんは丹念に遺文を読むことをあまりしていません。なのでこのような教義の矛盾に気づかないことが多いように感じます。