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さて今回は『経王殿御返事』と呼ばれる日蓮遺文についてです。
この『経王殿御返事』は、創価学会信徒や大石寺の法華講信徒さんには馴染みの深い御書として知られています。四条金吾頼基の娘とされる経王が病気になり、「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや」と励ます部分はとても有名です。
また「但し御信心によるべし、つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼にかなぼうたるべし」と書かれ、「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ」と御本尊を日蓮が書いた姿勢まで述べた遺文です(創価学会旧版御書全集1124〜1125ページ)。
ところが、この『経王殿御返事』、読めば読むほど非常に違和感の残る御書なのです。
まずこの御書は真蹟が存在しません。上古の時代写本も存在しません。室町時代以降、録外によって知られた遺文に過ぎないのです。
ただそうなると一つの矛盾が生じます。それは建治3年7月に書かれた『四条金吾殿御返事』(真蹟断簡現存、大分・下総)の次の一文です。
「とのは子なし・たのもしき兄弟なし・わづかの二所の所領なり」
文永10年は西暦1273年です。
建治3年は西暦1277年です。
建治3年の『四条金吾殿御返事』には断簡ながら真蹟が現存していることがわかっています。しかし建治3年から4年前とされる『経王殿御返事』には真蹟も写本も残っていません。
文永10年(1273年)に病気だったとされる「経王」と言う娘のことが書かれているのに、建治3年(1278年)には「とのには子がいない」と書かれています。
この二つは明らかに矛盾しています。つまり真蹟の現存しない『経王殿御返事』が偽書である可能性が高いと言うことです。
むろん文永10年の時点で病気だった娘・経王が亡くなってしまった可能性もあるでしょう。
もしかすると可能性として、鎌倉時代は男子のみを子息として見ていて、女の子は子どもとしては見ていなかったのでしょうか。
確かにそれなら辻褄は合いそうですが、それならなぜ建治3年の『四条金吾殿御返事』で5年前に大病をした娘のことにここで全く言及していないのでしょうか。まして、もしもその娘が本当に亡くなっていたとしたら、日蓮ともあろう人が四条金吾の死んだ娘のことを心配しないことがあるとはとても思えません。
またこの『経王殿御返事』では「此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし」とされていますが、そもそも四条金吾夫妻が日蓮の真筆本尊を賜わるのは弘安3年2月1日のことです。妻の日眼女とともに本尊を頂いています。四条金吾夫妻に与えられたこれらの本尊は堺市の妙國寺、文京区の長元寺にそれぞれ現存します。以下に画像も載せてみます。
『経王殿御返事』が書かれたとされる文永10年8月は佐渡始顕本尊が書かれた直後のことであり、この時、これらの本尊と別に本尊が夫妻に与えられたことは考えにくいことです(なぜ数年の間に2回以上も本尊を与えるのでしょうか)。またもしも佐渡で実際に四条金吾が本尊を日蓮から賜っていたとするなら、それが現在まで伝わっていないこともおかしな話です。
ここから考えるに、『経王殿御返事』という御書は、後世に作られた偽書の一つであると推論することが自然であると考えられます。
追加訂正(2022.9.14)
「とのには子なし」の「子」を、私は鎌倉時代においては「男子」のことでここでは「女子」は含まれないのではないかと書いてはみたのですが、その可能性は日蓮遺文からは低いのです。日蓮がきちんと「男子」と「女子」を同列に扱った遺文は存在しているのです。
「内典五千余巻には子なき人を貧人といふ、女子一人・男子一人・たとへば天には日月のごとく・地には東西にかたどれり」
これを読むと、日蓮が「子なき人を貧人といふ」としながら「子」を呼ぶのにきちんと「男子」も「女子」もともに併記していまして、どちらも同様に「子」と考えられています。しかも同書は日興写本が大石寺に現存しています。
ここから考えても日蓮が「子なし」と書いた時、そこには「男子」も「女子」もともに含まれており、上述の建治3年の『四条金吾殿御返事』における「とのには子なし」と書かれた文は日蓮の用法から考えても「四条金吾殿には男子も女子もいない」という趣旨で「とのには子なし」と書いた可能性が高いと考えられます。したがってここから考えても建治3年の時点で四条金吾には子どもがいなかったということは明白であり、『経王殿御返事』はやはり偽書の可能性が高いのだと思います。