気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

昭和52年路線とは何であったのか。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
さて今回は創価学会の教義の変遷における、いわゆる「昭和52年路線」とは何だったのかと言うことを少し書いてみたいと思います。
 
池田大作が第3代会長に就任するのが昭和35年5月3日、そして昭和40年代に入り、教勢の拡大は進んでいくことになります。会長の池田大作氏は教団内で信徒から絶大な支持を得ていく中で、少しずつ神格化されていくようになります。やがて本来の教義を拡大解釈して在家主義的な教義を主張していくのです。
 
本来、創価学会日蓮正宗の信徒団体、法華講連合会の一つでした。日蓮正宗の信徒組織は、寺によって所属する「講」が異なり、さまざまな複数の「講」が緩やかに連合体を成す形で信徒組織を形成しているのです。この中には例えば大石寺各塔中坊の「法華講」があり、他には例えば「妙観講」「顕正会」「蘇生講」「正信会」「創価学会」等の組織が併存し、それが緩やかな連合体として日蓮正宗の信徒団体として存在しているのです。
 
日蓮正宗の各講組織の信徒の指導系統は「法華講連合会」自体にはなく、各末寺の住職と信徒との関係にあります。だからこそその信徒は各末寺に所属する形をとるのです。忘れている方も多いのですが、かつて創価学会が宗教法人設立を大石寺に願い出た時、宗門から出された条件が「三原則」の遵守、すなわち「折伏した人は信徒として各寺院に所属させる」「当山の教義を守る」「三宝を守る」だったのです(昭和26年12月18日、大石寺本山での会議にて)。
 
ところが、正本堂建立前後(昭和47年前後)から、創価学会側は大石寺の教義を在家主義的に応用して現代的な言葉に置き換え、大石寺よりもむしろ創価学会組織を正統な組織と捉えたり、三代会長らを神格化したりするようになります。これらは昭和52年1月15日に大阪豊中市の関西戸田記念講堂で行われた創価学会の「教学部大会」での池田会長の「仏教史観を語る」の発表以降、日蓮正宗側から教義逸脱として激しく批判されるようになります。この対立は「第1次宗創紛争」と呼ばれ、この時の創価学会側の在家主義的な教義解釈を「52年路線」と呼びます。これらの問題は昭和53年6月19日、宗門側から質問状が創価学会に出され、同6月30日付で創価学会から宗門に回答が送付され、それらを教義逸脱として創価学会が認めて謝罪する形で一度決着します。
 
ではこの時の「52年路線」という創価学会の教学とはどういうものだったのでしょう。
主として3点を挙げてみましょう。
 
1、三代会長、特に池田大作の神格化
2、「三宝」の拡大解釈
3、創価学会各会館と寺院との混同、僧俗の差別の曖昧化
 
主にこれら三つの点から説明してみましょう。
 
 
1、三代会長、特に池田大作の神格化
 
以下の2枚の画像は『教学と私』第1巻(聖教新聞社、昭和48年)からのものです。具体的な出典は法華講衆有志編『蓮華八十七号の正しい読み方資料』(法華講衆有志、昭和53年)であり、それぞれ132ページ、150ページ掲載分になります。

 
 
それぞれ「池田先生と境智冥合できる人材になろう」「池田先生こそ本門弘通の大導師であります」とされています。当時、このように池田大作氏を神格化し、仏にも値するような不二の尊体のように絶賛することが普通に行われていました。そもそも「本門弘通の大導師」とは日蓮正宗の教義から言えば大石寺開山の日興に付されるべき尊称です。
 
 
2、「三宝」の拡大解釈
 
次に三宝観の解釈です。先ほどの「本門弘通の大導師」の解釈にも見られるように、本来三宝中の僧宝である筈の「本門弘通の大導師」(=日興)を池田大作氏への尊称として用いることが普通に行われていました。以下は聖教新聞(昭和49年5月27日付)の「名字の言」ですが、ここでは創価学会それ自体が「僧宝」とされています(前掲書232ページ)。

 
 
近年ではこれらがさらにエスカレートして、教団自体を「創価学会仏」と称して三宝における仏格扱いにしています。
 
 
3、創価学会各会館と寺院との混同、僧俗の差別の曖昧化
 
次に在家の信徒団体である創価学会が当時所属していたところの日蓮正宗本体を差し置いて、自分たちの教団が「僧俗」の両義を兼ね、在家であっても「供養」を受けられる、また創価学会の会館自体が現代における「寺院」ということを主張し始めます。
これらの教義解釈は出家集団である筈の「宗門」「僧」が「形式主義に陥りつつある」という文脈で語られ、「現代における広宣流布を実践しているのは我々創価学会である」ことから、「自分たちも供養を受けられるし、僧としての義を既に持っている」ことを主張するに至るのです。やがてこれらはエスカレートし、そもそも「日蓮日興の血脈は創価学会にこそ通う」という解釈をするに至ります。
以下は昭和52年1月15日、教学部大会における池田大作氏の『仏教史観を語る』と題された講演です(前掲書230、219、及び231ページ)が、この中で池田大作氏は明確に「現代において創価学会は在家、出家の両方に通ずる役割を果たしている」「その供養が仏法流布に生かされるならば、在家の身であっても供養を受けられるという思想があります」と述べているのです。

 
池田大作氏、並びに創価学会本体はこれら在家主義的仏教解釈について、日蓮正宗宗門から指摘を受け、その誤りについて公式に認めて謝罪をします。このことはブログ記事冒頭で述べたように昭和53年6月19日に宗門側から質問状が創価学会に出され、同6月30日付で創価学会から宗門に回答が送付され、この中で創価学会が教義逸脱の事実を認めて謝罪することになるのです。
ところが、この昭和53年6月30日で謝罪し、創価学会は一度は教義逸脱を認めた筈なのですが、創価学会はこれらの謝罪を第2次宗創紛争以降(平成3年以降)、事実上棚上げ・撤回し、これらの在家主義的教義こそが「真に現代の時代に即応した新しい教義」と考えたようなのです。
その証拠に令和5年2月26日付の聖教新聞の1面では、この昭和52年教学大会での池田氏の『仏教史観を語る』講演がカラー写真で掲載され、紹介されているのです。
かつて謝罪して教義的に誤りだとした昭和52年路線の教学大会の写真をなぜ今になって機関紙に掲載するのでしょうか。

創価学会はかつての在家主義的教学路線である「昭和52年路線」について、大石寺宗門からの指摘を受け、少なくともその教義逸脱を認めて謝罪をしました。
それを今になって正当化するのなら、まず過去の大石寺宗門への謝罪は何だったのかを説明する必要があります。
つまり謝罪は正しかったのか、それとも間違いだったのか、どちらなのかということです。
謝罪をした創価学会が正しかったのなら、なぜその時に謝罪をしたのかということになりますし、かつての謝罪はみかけだけの「嘘」だったのかという疑念が残ることになります。
要は創価学会には過去への総括がなく、その場しのぎで謝罪をしてきたと評されても仕方がない部分があると言うことなのです。
 
 
参考文献
法華講衆有志編『蓮華八十七号の正しい読み方資料』法華講衆有志、昭和53年
創価学会『特別学習会テキスト』創価学会、昭和54年
聖教新聞』令和5年2月26日付