気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

細井日達と妙信講問題。




いつもみなさん、ありがとうございます。



今回は昭和47年の正本堂建立以降に変化していった、大石寺宗門、創価学会、そして妙心講(現在の顕正会)の教義的な関係について、少し書いてみようと思います。




さて私は創価学会の活動家だった頃、広宣部・言論企画部という組織に所属していました。



「広宣部と言論企画部」



ところで、広宣部時代にとっておいた資料の中に西山茂氏の論文「正本堂の危機と教学革新」の一部コピーがありました。
顕正会との対論の場で参考にしたものです。
西山茂氏という方は現在、法華コモンズ仏教学林の理事長です。法華コモンズの前身である「本化ネットワーク」の時代から同氏は主宰として活動されていた方です。
コピーなので、原典がどこにあるかわからないのですが、ネットで調べた限りでは『法華仏教研究』の第3号に現在は収録されているようです。




この論文にどんなことが書いてあるか、やや古い資料ですが、そのまま紹介してみましょう。



創価学会と宗門が『言論出版妨害問題』を契機として国立戒壇論を放棄したことに対して、根本主義の立場をとる宗内の一部僧俗、とりわけ妙信講(現在は顕正会板橋区常盤台に本部、昭和60年5月現在の公称会員数約10万人)から、鋭い批判の声があがった。しかし『政教一致』を非難する厳しい世論を前にして再び国立戒壇論の立場に戻れる訳もなく、ここに両者は、妙信講問題という難題を抱えることになった。そして、これが、やがて創価学会をして、後述するような『昭和52年路線』と言われる在家主義色の濃厚な教団自立化路線へと向かわしめる契機となった。妙信講問題とは、妙信講を中心とした宗内の根本主義者が、国立戒壇論の正当性をなお主張して、それを放棄した創価学会および宗門と激しく対立した問題を指す。しかし創価学会をして、『昭和52年路線』へと向かわしめたものは、戒壇論を巡る妙信講との対立そのものではなく、むしろ、教学上の正邪の裁定権を握っていた法主の、同問題への対応ぶりであった。すなわち、第66世法主細井日達は、それまでは創価学会とともに国立戒壇論を否定し、また、『正本堂』の建立が実質的な『事の戒壇』の建立であるとする『正本堂御供養趣意書』等における創価学会の主張を黙認してきたにも関わらず、いざ妙信講問題が起こると、今度は立場を変えて、創価学会と妙信講との間の教学論争を第三者的に裁こうとした。しかも、その裁定は、『定見なく、ある時は妙信講に、ある時は創価学会にと軍配を上げ(る)』ようなものであった。
こうして、創価学会は、国立戒壇論の是非と『正本堂』の教学上の意義を巡って、昭和45年から47年の間に、法主の面前での対論も含め、十数回に亙って妙信講と対論させられ、その結果、昭和47年の10月3日には『正本堂』の完成が直ちに『事の戒壇』の建立を意味しない旨の理事長コメントを同会の機関紙『聖教新聞』紙上に掲載せざるを得なくなるなど、同会の存在と行為の正当化が著しく困難になる事態に直面した。上記のような法主のボナパルティックな対応は、宗門経済に対する絶大な貢献によって実質的になされていた創価学会の宗門支配に危機感を抱き始めた法主が、戒壇論の変更に対する妙信講の異議申し立てを好機に、また、自らの教学上の裁定権を武器に、宗門の権威を同会に認識させ、政治的に牽制しようとする意図によるものであったと思われる。しかし、こうした法主の態度は、妙信講と創価学会の双方に、法主に対する抜き難い不信感を与え、やがて妙信講の解散処分(昭和49年8月)と創価学会の『昭和52年路線』とを招来することになる。」
(西山茂「正当化の危機と教学革新」より)




と、こういう感じの内容です。
個人的には非常に納得しました。
そもそも正本堂を実質的に「事の戒壇」としたのは創価学会側ではなく、大石寺細井日達法主だったのです。創価学会池田大作氏の当時の発言からもわかりますが、正本堂の後に「本門戒壇堂」が将来において建立されると考えていたのです。それを覆し、『百六箇抄』を根拠に正本堂の建立を実質的な「事の戒壇」としたのは実は大石寺細井日達なのです。


妙信講問題で、創価学会側が法主の面前で話し合いをさせられ、更には細井日達本人に「定見なく、ある時は妙信講に、ある時は創価学会に軍配を上げる」ような態度で臨まれ、創価学会には細井日達への強い不信感を持つようになりました。
私も記憶にありますが、阿部日顕法主の頃も、細井日達氏は創価学会信徒から評判が悪かったのです。
つまり創価学会正本堂建立を契機に財政的に大石寺宗門を支配しつつあり、それに危機感を覚えた大石寺細井日達が教学上の裁定権を武器にして、創価学会と妙信講に揺さぶりをかけてきたというのが、実際の史実に近いだろうと私は考えています。そこから「昭和52年路線」という訳の分からない在家主義的な教学路線が創価学会から出てきたことになります。そして妙信講は細井日達から講中解散処分となり、その後、「顕正会」と名前を変えて先鋭化していくことになります。