いつもみなさん、ありがとうございます。
表向きは大講堂等、寺院の寄進建立、登山会の開始等、戸田城聖時代から財政的に大石寺を助けていくわけなのですが、その反面、狸祭り事件に見られるように自分たちの言い分を大石寺側に飲ませるようになっていきます。
大石寺が創価学会を破門したのなら、何も創価学会などにこだわらず、堂々と一般社会に向けて宗教的メッセージを発信して、布教活動していけばよいだけのことですが、彼らは創価学会員の脱会者作りにこだわっていくようになるのです。
彼らはそれが伝統的な大石寺信仰だと勝手に勘違いしていますが、それらは戸田城聖時代から大石寺を揺さぶり続けてきた創価学会の原理主義的な態度だったわけです。新参の法華講たちはかつての歴史を知らず、自分たちの態度が「本来の大石寺の精神だ」と勝手に思い込んでしまっているのです。富士宮市周辺には昔からの旧信徒組織、伝統講も残っていますが、彼らは本尊の奉安様式も違いますし、神社にもきちんと参拝します。伝統講の方々は現在活動している新参の法華講信徒を醒めた目で見るようになっているのです。
問題の根は、そのような創価学会あがりの新参法華講、妙観講信徒さんたちがかつての創価学会そっくりな布教活動を展開し、さらには創価学会の離間工作ばかりをする態度を、大石寺宗門が黙認しているということです。
まあ総本山側からすれば、信徒が増えれば良い、布教が進めばよい、ということなのかもしれませんが、何もそんなにかつての創価学会にこだわらなくても良いのではないでしょうか。ちなみに今の創価学会は完全に大石寺教学を失ってしまっていまして、今さら関係を戻したところで、登山会などもう行われないと思います。だいたい創価班が激減している状態で、昔のように無理矢理創価班を着任させて登山の輸送をさせるということがもはや創価学会は不可能になっている筈です。
宗創紛争、創価学会破門からすでに30年が経ちます。
一方、大石寺は破門した筈の創価学会のことを忘れられないのか、創価学会の批判に明け暮れ、創価学会の脱会者作りばかりで、一般の方への布教がほとんどできなくなり、信仰態度としては、かつての創価学会そっくりの信徒組織を持つようになりました。
「大石寺伝統講、旧檀信徒さんについて」