気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

創価学会により変容してきた大石寺。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さてブログを書いて、歴史を検証していくうちに、だんだん気づくこともあるものです。
私が改めて気付かされたのは、もともとあった大石寺の教義というものが、昭和の創価学会の影響で少しずつ変えられてきたというものです。


例えば、大石寺の三門には古来「順逆ともに来たれ」と書かれていたとされ、他宗門の人が参拝に来てもそれを拒否するというようなことをしていませんでした。それを「謗法払い」とか「謗法厳戒」と言い出して否定し出したのは、歴史的にはむしろ創価学会の方なのです。大石寺9世日有の『有師化儀抄』では法華宗の御堂なんどへ他宗他門の人参詣して散供まいらせ花を捧る事あり、之を制すべからず、既に順縁なるが故なり」(富要1-75)と述べられています。



「順逆ともに来たれ」


牧口常三郎の尋問調書から見る謗法払いの実態」



牧口常三郎氏も述べたように宗門には「謗法」という教義はあっても「謗法払い」は元来なかったものです。



また創価学会の小説『人間革命』では、戸田城聖会長が「広宣流布の模擬試験」と銘打って青年部を本山に集めます。この時、池田大作と当時の青年部たちが車駕を作り、戸田城聖を乗せて、本山内を練り歩くシーンが出てきます。
これは当時の宗門内でも問題になったことなのですが、本来、大石寺内は「下馬下乗」と言われていまして、例え法主と言えども三門に入ったら乗り物を乗ることはできないのです。その慣例を破り、車駕で練り歩いたのが当時の創価学会戸田城聖だったということです。しかも戸田城聖はこの時、本山内で豚を屠殺してドラム缶で豚汁を作り、参拝した創価学会信徒に振る舞うことまでしています。当時の宗門から見れば非常識甚だしい行為です。



現在の大石寺の布教方法が、各末寺に一定数の目標を決めさせ、発破をかけるという方法を取っていますが、本来このような布教の方法論をとってきたのは創価学会の方です。例えば昔の青年部、創価班などの例を見ても布教が達成できなかった人たちを立たせて個別に吊し上げて目標を達成させるような強硬な方法論を主張していたことを、私は当時の青年部としてよく記憶しています。



また曼荼羅本尊の安置は、現在「一幅式」といって仏壇に曼荼羅のみを奉掲するという形が一般的になっていて、それが当たり前だと皆が思っています。ところが、大石寺の御影堂では曼荼羅本尊の前に日蓮御影を置く「一幅一体式」という形も存在しました。また客殿のように曼荼羅の左右に日蓮と日興の御影を置く「一幅二体式」という形もありました。つまり創価学会の出現前は本尊の奉安様式も定まってはいなかったのです。
その証拠に、現在八王子の牧口記念会館内には「牧口顕彰室」という小さな部屋がありまして、その中に牧口常三郎氏が使っていた小さな仏壇があります。私がまだ青年部の時、その仏壇に唱題をしたことがありますが、その時の曼荼羅本尊の前には小さな日蓮御影がきちんと置かれていました。



「本尊の奉安様式」



大石寺の信徒には法華講妙観講といった講組織が複数存在していまして、大石寺の信徒組織はそれらを合わせて「法華講連合会」などと呼ばれます。
その中で新参の創価学会寄りな教義を信じる法華講たちとは違って、旧来の大石寺信徒、地元で昔から信仰をしていた古くからの檀信徒さんたちも大石寺には一部存在します。
私と私の知人たちは便宜的に彼らを「伝統講」と呼んだりしますが、その方たちは、昔からの大石寺の様子をよく覚えていまして、近年の創価学会風になってしまった法華講組織の信徒たちを意外と醒めた目で見ていたりします。



大石寺の肩を持つわけではありませんが、いい加減、大石寺創価学会寄りの慣習や教義をやめにして、伝統的な元々の小さな教団、日蓮宗興門流に戻ってもよいのかなと思います。あまり発破をかけ過ぎて、末寺の住職さんが疲弊するのも個人的には見ていてちょっとだけかわいそうに思えてきたりします。