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創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

如来神力品では付嘱がされていない。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて天台教学を前提とする日蓮の教説では、法華経如来神力品の付嘱は別付嘱であり、嘱累品の付嘱は総付嘱として考えられています。
当然のことながら、教義的には上行菩薩等、地涌の菩薩に付嘱される「別付嘱」が重要になります。



ところで、如来神力品第21をよく読んでみると、上行等に法華経が付嘱されたとは言い切れない表現になっているのです。



具体的に経文から見てみましょう。如来神力品第21で「嘱累」の文字が出てくるのは、以下の部分のみです。



「爾時仏語。上行等菩薩大衆。諸仏神力。如是無量無辺。不可思議。若我以是神力。於無量無辺。百千万億。阿僧祇劫。為嘱累故。説此経功徳。猶不能盡。」



簡単に和訳すると次のような意味になります。



「その時、釈迦は上行等の菩薩大衆に語った。諸仏の神力はこのように無量無辺・不可思議である。諸仏が神力をもって無量無辺百千万億阿僧祇劫において嘱累のためにこの経の功徳を説いても、なお言い尽くすことはできなかった。」



つまり法華経如来神力品において、釈迦が上行等菩薩大衆への「嘱累」をしようとしても、それは「猶不能盡」すなわち「言い尽くすことができなかった」という意味になります。
もっと簡単に言ってしまうと「嘱累しようと思ったけど、嘱累し切れなかった」ということで、その後に「以要言之」として要点を書いて置いておくとしたのです。



天台智顗や日蓮が、この如来神力品を「別付嘱」と解釈するのは自由ですが、文言だけを見れば如来神力品では「嘱累」が「し切れなかった」と告白しているに等しいのです。
そして如来神力品第21で「嘱累」し切れなかった法華経を、一度嘱累品第22で全員に「嘱累」し、そして如来滅後後五百歳において広宣流布を「宿王華菩薩」に改めて「嘱累」したのが、この前後の漢訳法華経の正しいストーリーになります。



本来、サンスクリット原典では嘱累品、すなわち「委任」の章節は最終章に置かれますので、神力品で付嘱し切れなかった法華経を、薬王品で改めて宿王華に付嘱するという流れになります。こちらの方がストーリーとしては自然です。



天台教学における法華経解釈は、独自の教義的視点から法華経を解釈する視点が強く、正確に法華経を読んでいるとは言い難い部分があります。