気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

普門品の観音称名も捃拾か。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて先日の記事では観世音菩薩普門品のことを取り上げたのですが、ここで観音の名号を唱える功徳が述べられているのに、創価学会等の大石寺系教団は全く見ようとしません。
その理由は、日蓮自身が天台の捃拾(くんじゅう)説を無自覚に前提し、薬王品以下を残余として考えているからです。



事実、池田大作の『法華経智慧』でも、「もちろん、文底から見るならば『観音の名を称える」とは、観音の力の根源である久遠の本仏『南無妙法蓮華経』の名前を称えるということです。」と述べていまして、観音の名を唱えることを何の根拠も示さずに「題目を唱えること」にすり替えてしまっています。戸田城聖もまた「薬王品以下は寿量品の残りカス」とまで言い切っています。



これには天台の捃拾説を踏襲しているだけの日蓮自身に原因があります、捃拾とは「落穂拾い」の意味で、寿量品が説かれた後に余った、会衆に説かれた残りの部分を、こぼれ落ちた部分と解釈したのです。『観心本尊抄』に説かれているのはこの意味です。



「次下の嘱累品に云く『爾の時に釈迦牟尼仏・法座より起つて大神力を現じ給う右の手を以て無量の菩薩摩訶薩の頂を摩で乃至今以て汝等に付属す』等云云、地涌の菩薩を以て頭と為して迹化他方乃至・梵釈・四天等に此の経を嘱累し給う・十方より来る諸の分身の仏各本土に還つて故の如くし給う可し等云云、薬王品已下乃至涅槃経等は地涌の菩薩去り了つて迹化の衆他方の菩薩等の為に重ねて之を付属し給う捃拾遺嘱是なり。」
日蓮観心本尊抄創価学会版御書252ページ)



ここで日蓮は天台の五時八教判から、法華経薬王品第25以下から涅槃経までを「捃拾遺嘱」としています。しかしながら現代の文献学や歴史学的判断から見るなら、法華涅槃を五時に配するのは何の根拠もないことですし、そもそも竺法護の『正法華』やサンスクリット原典から見れば、嘱累品第22は本来最後の章節なのでして、鳩摩羅什訳の妙法華は意図的に順番が変えられているのです。



薬王品に明確にある宿王華菩薩への付嘱を一方的に無視して、上行菩薩付嘱と読み替えてしまう原因は、実は天台智顗の『法華文句』の「自法華已後有得道者。如捃拾耳。」の部分からきていまして、だからこそ日蓮は嘱累品の後の薬王品以下を捃拾、つまり功徳の「落穂拾い」として、寿量品の残滓と考えるようになってしまったのです。



薬王品以下の諸品を落穂拾い、単なる残滓として扱うのは、天台智顗の無批判な摂取に過ぎませんし、そもそも法華経そのものを尊重するようでいながら、その実、漢訳法華経薬王品以下をあまりに軽視するものです。
だからこそ池田大作が『法華経智慧』で、「称名観音」を短絡的に「唱題行」とするのは、そういう前提が日蓮の中にあり、そのことを無検証に受け入れているに過ぎないということです。
すなわち日蓮自身が天台智顗の受け売りで法華経を読んでいるに過ぎず、池田大作戸田城聖もそのことを無自覚に信じて受け入れているに過ぎないということなのです。



まあ、日蓮自身が天台智顗の教説に従順であったのは、彼が比叡山の再興を願い、純粋に最澄末法における後継を自覚していたからなのですが、現代においてその誤りに気付いたのならきちんとそれは検証して、何が現代において無効な教義で何が有効なのかを教団として示さなければ不誠実な誹りは免れ得ないでしょう。そのような真摯な学的検証を全く行わず、過去の教義を無自覚に受容し、都合が悪くなれば捨てるというだけなら、創価学会大石寺系教団は教団指導者とともに学問的に不誠実な姿勢を自ら曝け出しているに過ぎないのだと私は思います。



追記
法華経中で、この観世音菩薩普門品では非常に明確な現世利益を主張しています。それほどここには観音の名前を唱える功徳がたくさん列記されているからです。
法華経の成仏は、信仰者の死後の予言であることばかりです。その中でも現実に観音の名を唱えることの功徳をはっきりと説いているこの品は、法華経中でも異彩を放っています。
創価学会日蓮正宗が、今後も現世利益を主張し、病気が治るとか火にも焼けないとか具体的な功徳を信徒に伝えていきたいのなら、他はさておきこの普門品の教義説明は喫緊の課題でしょう。