いつもみなさん、ありがとうございます。
さて少し前に法華経の観世音菩薩普門品第25のことを書きました。
ほとんどの創価学会員さんは知らないことでしょうけど、これは観音経とも呼ばれ、独立して読誦されることが知られています。
先日の記事では「還著於本人」のことを取り上げ、これが観世音菩薩普門品に説かれていることを紹介しました。
この普門品では、観世音菩薩の名号を唱えること、観世音菩薩に帰依することが強調されているのです。
観世音菩薩とはサンスクリットで「アヴァローキテーシュヴァラ」(Avalokitesvara)と呼ばれまして、鳩摩羅什はこれを「観世音菩薩」と訳しましたが、玄奘は「観察された」(avalokita)と「自在の者」(isvara)の合成語として「観自在」と訳しています。
この観世音菩薩、アヴァローキテーシュヴァラの名号を唱えること、心に念じることを説いているものこそ、この法華経観世音菩薩普門品です。普門品冒頭で、釈迦は無尽意菩薩に対し、衆生が諸々の苦悩を受けても「一心称名。観世音菩薩。」することで、苦悩から解き放たれることを述べています。
他にも観世音菩薩の名号を唱えれば、火に焼かれることもなく、水に流されることもない、刀で傷付けられようとしても刀が砕けてしまったり、どんな恐れも観世音菩薩の名を唱えることで救われることが説かれています。
ちなみに浄土真宗の教えに接近している最近の私からすれば、観無量寿経で阿弥陀如来の脇侍を勤めているのは観世音菩薩と大勢子菩薩であることがよくわかります。観無量寿経でも阿弥陀如来への観想とともに、きちんと観世音菩薩への観想も説かれています。
まあ、唱えるか唱えないかは信仰者の各人の自由なのでしょうけど、そういうことを全く考えない、無自覚で教条主義的な宗教の姿勢の方がむしろ問題のように思います。