気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

宗教的洗脳からの覚醒のために。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて、私はこんなブログをもう7年近くも書き続けていますが、未だに読者から驚き等の反響を頂きます。
日蓮正宗創価学会、また顕正会や正信会といった大石寺系教団の欺瞞は、文献を一つ一つ読むことによってわかってくるからです。
私は現在教団を離れましたが、現役の会員信徒の頃からここのブログに書いてあるようなことをずっと読んで考えていました。「公開すべきではない」とさえ考えたこともあります。
 
 
しかし私は母の死を契機にブログを書き始めました。教団が教団にとっての都合の良い教義を作っているのはわかります。そしてそれを構成するために偽書を真蹟と見做して、勝手に教団倫理を作り上げてしまったのです。
それを黙認してきたのも、一人一人の幹部や信徒の責任であると私は考えました。まして私は元広宣部の活動家であり、方面幹部も経験しました。自身の責任も大いにあろうかと考えたのです。
最近は多くの方がこのブログを読み、文字通り「覚醒」して日蓮正宗創価学会から離れる方が多くいらっしゃいます。
 
動画にすることも一時考えました。ただ私自身、動画作成が苦手なこと、また一つ一つの文献を読むことでしか「覚醒」はあり得ないとの立場から、ブログでの紹介文献などで具体的に画像を増やし、読者に「読んでいただく」ことを念頭に置いています。
話を聴いてわかった気になるだけなら、教団教義から離れられなくなる可能性もあります。大切なのは何よりも自身の手で文献を紐解き、読んでみることなのです。
だから手に入りにくい文献(と思われるもの)についても、私は積極的に文献画像を挙げ、引用を正確に紹介し、読者の便宜に資する形を取りたいと考えているのです。
 
読まなければ、教団に惑わされるだけです。
読んでみることです。
法華経阿弥陀如来が出てくることさえ知らない信徒が、創価学会大石寺にはたくさんいます。
法華経薬王品で描かれた法華経を如説修行する功徳は、阿弥陀仏の世界に即往生することです。誰も読んでいないから知らないのです。
法華経安楽行品で仏教者は国王や大臣、為政者、政治家と関わってはならないことが描かれます。だとすれば公明党を応援することはそもそも法華経の精神に反しているのです。
法華経神力品での上行菩薩への付属は「猶不能尽」とされ、付属ができなかったことを釈迦が認めています。そして続く薬王品で法華経は正式に宿王華菩薩に付属されるのです。天台の捃拾説によって、嘱累品以下が付録扱いにされてしまった、その恣意的な解釈を日蓮が無自覚に受容してしまっただけのことなのです。捃拾説に則ったことはきちんと『観心本尊抄』に出てきますが、信徒はきちんと読んでいないので知らないで済ましているだけなのです。
 
 
日蓮が作った信徒組織は「大師講」です。天台大師の命日に行われ、内容は天台五時八教判を『一代五時鶏図』から学びます。メンバーは武家武家尼、門下の僧侶です。文字の読めない庶民は誰一人メンバーになっていません。日蓮は民衆仏教を構想などしていないのです。『一代五時鶏図』は真蹟が多数残っている筈なのに、創価学会日蓮正宗の信徒では全く学ばれていません。日蓮が大師講で学ばせたものを彼らは学ぼうとしないのです。
 
 
そして日蓮の著作とは言えない偽書ばかりを有り難がり、日蓮の著作として疑問符の付くものばかりをコラージュのように繋ぎ合わせて「生命」とか「宇宙」とか「血脈」とか訳のわからないことを言い始めます。日蓮真蹟に「血脈」の用例は一つも存在しません。したがって「血脈」は日蓮の教義とは言えないのです。
 
 
読んでいくうちに、教団の欺瞞に気づかれると思います。真実の法や実在の法、絶対の本尊などというものは存在しません。正しい教えなど存在しません。釈迦の教えは本来そのような絶対性を捨て、自身の認識に限界があることを教えたものです。事実「毒矢の喩え」では「宇宙の真実とは何か」「宇宙とは有限か無限か」等の「無記」についての質問は釈迦によって退けられています。釈迦の教えの目的は四聖諦から離れることであり、そのために自身の執着を逃れるために六処と十二因縁を教えたものなのです。
 
それなのに真摯に学ぼうとしない、未だに偽書でしかない『御義口伝』を有り難がり、生命とか宇宙とかを語ろうとする信徒に仏教の精神などかけらもないことがわかるでしょう。『御義口伝』は日蓮滅後数百年間、誰も言及していない偽書であり、日蓮滅後に刊行された文献が引用される後世の偽作でしかないのです。
 
間違いがあるなら、真摯に認めれば良いだけです。真摯に認めて反省し、教義を再構成すれば良いだけです。「今までの私たちは間違っていました」と言えば良いだけなのです。
今の日蓮正宗創価学会はそれができない、真摯な反省ができず、他者の正当な批判を受け止めることができない教団であることが露呈しています。だからこそ彼らはカルト的なのです。
 
 
そのような教団の桎梏から離れるためには、真摯に文献を読み、自らの頭で教団の誤りを知ることです。それがわかった時に本当の信仰が始まります。今まで自分が信じてきたものは何だったのか?と思う気持ちもあるでしょう。私も同じでした。私は信じてきた自分が愚かだったのだと思っています。
自身の過去を精算し、自身の過ちを知り、教団の欺瞞を認める時に自分が信じていた愚かさに気づくことができるでしょう。そこから目を背けないことです。それに目を背けるなら「どこかに正しい教えがあるに違いない」と永遠にドグマを求めて彷徨するだけの宗教サーフィンに陥ります。
 
自身が信じてきたものの間違いを認めること、それを信じてしまった自身の愚かさを認めること、それができて初めて宗教の桎梏から逃れられるのだと私は考えます。