気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

書いてあることを根本とすること。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて私がこのブログを運営する際に気を付けていることは、「書いてあることを根本にすること」「正史料にきちんと記録されていることを根本にして議論を組み立てること」です。
それを蔑ろにすれば、単なる狂信的な態度、原理主義になってしまいます。
 
 
「論点を逸らす狂信的な態度」
 
 
確かな史料を客観的に示して、史料から言えることを解釈を極力入れずに提示すること、それをすれば、日蓮の本来の意図や法華経の本来の趣旨が自ずと見えてくるものです。
 
 
日蓮は必ず経文、文献に「書いてあるのか、いないのか」を根本としました。日蓮法華経等、漢訳仏典の解釈に関して智顗や湛然による中国仏教の教判(いわゆる五時八教判)のバイアスに囚われてしまったことは、当時の時代的制約として確かに致し方ないことでしょう。
しかしだからこそ、それらは現代にあっては批判されなければならない筈ですし、その上で日蓮自身が「経文に書いてあることを根本」とし、書いていないことは己義として退けたということです。それらの態度はやはり尊重されるべきでしょう。
真蹟に書いてもいないこと、偽書にしか載らないことをいくら「日蓮の思想だ」と強弁されても、そもそも日蓮真蹟に存在しない以上、日蓮の思想とは言えないのです。
例えば『撰時抄』(真蹟は玉沢妙法華寺他に現存)には次のようにあります。
 
「竜樹菩薩の云く「修多羅に依れるは白論なり修多羅に依らざれば黒論なり」天台の云く「修多羅と合せば録して之を用ゆ文無く義無きは信受すべからず」伝教大師云く「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」等云々、此等の経論釈のごときんば夢を本にはすべからずただついさして法華経大日経との勝劣を分明に説きたらん経論の文こそたいせちに候はめ」
日蓮『撰時抄』創価学会旧版御書全集281〜282ページ)

日蓮は龍樹や智顗、最澄らを引用し、「修多羅」(梵:sūtra、経典)に依拠することを「白論」としています。最澄の言葉「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」という文は日蓮遺文で何度となく繰り返し引用されている文でもあります。(具体的には『開目抄』219ページ、『聖愚問答抄』482ページ、『立正観抄』528ページ)
 
このように日蓮が経文を根本にすべきと述べた部分は枚挙に暇がありません。例えば『行敏訴状御会通』(真蹟は身延曽存)では「仏の遺言に云く我が経の外に正法ありといわば天魔の説なり云々」と述べられています(同181ページ)。

 
また『祈禱抄』(真蹟は身延曽存)には「若し証拠なくんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構へ申す間・邪教とは申すなり」(同1355ページ)と書かれています。

 
また先に引用した『撰時抄』(真蹟は玉沢妙法華寺他に現存)には「問うて曰く経文は分明に候・天台・妙楽・伝教等の未来記の言はありや、答えて曰く汝が不審逆(さかしま)なり釈を引かん時こそ経論はいかにとは不審せられたれ、経文に分明なれば釈を尋ぬべからず」(同259ページ)とまで日蓮は述べています。つまり日蓮にあっては経典に書いてあるか否かが大切なのであって、後世の人の釈を根本とすべきではないとしているのです。

書いてあることを根本にして、史料を客観的に示し、解釈を入れずに冷静に見る時に、本当の史実が浮かび上がります。教団が偽書まがいの真蹟不存の文献から無理矢理に日蓮の思想を述べようと試みたところで、それは後世の教団による解釈に過ぎず、日蓮の本来の思想とは呼べないのです。