気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

遺文の真偽を誠実に求める姿勢。

 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
さて日蓮遺文に偽書が多く存在することは、よく知られていますし、またこのブログでも何度となく指摘させて頂いています。
ところで、読者の方より頂くご意見で「真蹟がないからと言って直ちに偽書と言えないのではないか」と言うのが多くあります。
確かにその通りです。
 
 
最大の問題はきちんと他の真蹟遺文、また日蓮や六老僧らと同時代の文献に、その御書が存在するのか、引用があるのか、当時の文献から見て整合性があるのかという点が問題になるでしょう。
 
 
例えば『真言見聞』という遺文があります。この遺文は真蹟不存で、時代写本も存在しません。
では『真言見聞』は偽書と断じるべきでしょうか。そんなに安易な問題でもないと思います。
実は六老僧の一人、民部日向の著作に『金綱集』という著作がありまして、その中にこの『真言見聞』のほぼ全文が収録されているのです。
このことに関して昭和新修・平楽寺版『日蓮聖人遺文全集』の編者・浅井要麟氏は次のように述べています。
 

「日向上人の編著と称する「金綱集」第六巻に真言見聞集といふがある。その中にこの真言見聞の殆ど全文が、断続的に包含されている。且つ録外第二十巻の真言私見聞も、またかの「真言見聞集」に収容されてゐるのである。古来録外二十巻の「真言私見聞」を向師の著といはれたのも偶然ではない。
由来かの「金綱集」は、向師が聖人から親しく聴聞し、又自ら見聞した所を筆録して、諸宗破立の大綱を記述し、広く経論疏釈の金言を援引して、華厳見聞集、又は真言見聞集と篇し、之を総括して「金綱集」と題したのであるが、その内容は要するに、この書及び録外巻二十の真言私見聞を合糅して、更にこれを補修し追加せられたものである。
更に翻つて本書の内容を見るに、往々聖人滅後の用語と覚しき文字を散見するのである。茲に至つてこの書もと聖人の帳秘として肝要を記されたものを、向師が補修せられたものか、或はまた向師の集録せられた一部が、聖人の名に依つて伝えられたものか、何れにしてもその成立については更に考究を要すべきものである。」
(昭和新修『日蓮聖人遺文全集』別巻より、214〜215ページ)
 
 
 
この中で浅井要麟氏は拙速な断定を避けていますが、日向が日蓮より聴聞したものを日向が補修して成立した可能性を述べています。
とするなら、この『真言見聞』は日蓮の教えを日向が書き残したもので、それを日向が補筆して成立したとする予測が立つことになります。
それなら同抄は日蓮真蹟として評価できなくても、日蓮の思想の一端を伝えるものとして肯定的に評価することが可能になるでしょう。
 
 
 
ところが、創価学会日蓮正宗には、日蓮の遺文のテクスト確定に対して平楽寺版のような真摯さが全く感じられません。
同時代の文献に引用があるのか、日蓮遺文として客観的な論証が可能なのか、そういう真摯な検討を彼らは全くしないのです。
それでいながら、何の信用性もない『御義口伝』や『諸法実相抄』『生死一大事血脈抄』のように偽書説濃厚な遺文を、何の根拠もなく評価したりするのです。
 
 
「『諸法実相抄』は後世の偽作」
 
「『寂日房御書』は偽書である」
 
大石寺写本『御義口伝』の改竄」
 
なぜそれらが偽書なのか、偽書でないとするなら、その根拠は何なのかということに関して、創価学会日蓮正宗信者は真摯に求めようとはしません。そのように日蓮遺文を真摯に読まない人たちは、私の目には日蓮門流の誠実な信者とは見えないということです。