いつもみなさん、ありがとうございます。
1、序品
2、方便品
3、譬喩品
4、信解品
5、薬草喩品
6、授記品
7、化城喩品
8、五百弟子授記品
9、授学無学人記品
10、法師品
11、見宝塔品
12、提婆達多品
13、勧持品
14、安楽行品
15、従地湧出品
16、如来寿量品
17、分別功徳品
18、随喜功徳品
19、法師功徳品
20、常不軽菩薩品
21、如来神力品
22、嘱累品
23、薬王菩薩本事品
24、妙音菩薩品
25、観世音菩薩普門品
26、陀羅尼品
27、妙荘厳王本事品
28、普賢菩薩勧発品
この配列は恣意的に変えられたものであり、本来の法華経の順番と違うことは以下のブログ記事で指摘させていただきました。
「本来の法華経の構成」
今回の記事は法華経全28品全てについて書いていますので、やや記事が長めです(時間をかけて書き溜めていたものです)。全部一気に読むと大変でしょうから、飛ばし読みや流し読みをしたり、少しずつ気に入ったところから拾い読みしたりするのもよいかと思います。
1、序品
・無量義経が法華経の「開経」とされる根拠は、序品第1の「無量義処三昧」にあります。釈迦は序品第1ではまだ「無量義処三昧」という瞑想状態にあるのですが(実際に釈迦が説法し出すのは方便品冒頭「爾時世尊。従三昧。安祥而起。告舎利弗」の時点)、釈迦が入っていた「無量義処三昧」という瞑想の名称から、智顗が勝手に「法華経の前には無量義経が説かれた筈」と曲解しただけなのが天台の五時八教判に過ぎません。
2、方便品
・多くの創価学会信徒は十如是以降の方便品を全く知りませんが、十如是以降も方便品はまだ続きます。大石寺26世日寛は世雄偈以降の方便品の長行も読誦する意義も強調しますが、創価学会信徒はこのことに関して完全にスルーしています。ちなみに正信会系の一部僧侶たちは世雄偈以降も現在でも読誦しています。
・なお方便品途中で、仏の説法を理解しない5,000人の聴衆が法華経の会座を立ち去るシーンがあります。釈迦はこれを「仏威徳故去」として認めています。釈迦はここで自身の意に沿わない人たちが去るのを引き止めず、認めたことになります。
3、譬喩品
・冒頭から方便品を聞き終わった舎利弗が「即起合掌」と立ち上がるシーンがあります。この時、舎利弗は「蓮華光如来」(華光如来)という仏の記別を受けます。ただしここで舎利弗は即身成仏をしたのではなく、単に未来の世において必ず仏になれる約束をされただけです。つまりその場で即身成仏するという教義は法華経には描かれていないことになります。
譬喩品で有名なのは「三車火宅」の譬喩です。ここで釈迦は方便として3種類の法を説き、最後に大百牛車として一仏乗を説きます。美しく印象深い説話ですが、今の創価学会や大石寺の信者は読まないので知らない人ばかりになりました。
4、信解品
・冒頭では須菩提、迦旃延、迦葉、目犍連の4人の弟子が現れます。自分たちが知ったと思っていて求める心を起こさなかったことを悔い、「長者窮子の譬喩」を語り始めます。4人が大乗の教えを理解して語るところです。創価学会信徒はここに書いてあることをほとんど読んだことがないと思います。
5、薬草喩品
・法華経中、最も美しい譬喩が説かれ、文学的に美しい章節です。ここでは「雖一地所生。一雨所潤。」と説かれ、多様な草花が生い茂る様子が描かれます。
鳩摩羅什漢訳の妙法華では後半に大きなカットがあります。この部分を含めて薬草喩品の文学的な美しさについて、以前ブログ記事で紹介したことがあります。
「薬草喩品について」
6、授記品
・ここでは冒頭に迦葉の三百万億の仏に仕えて、最後に仏になることができるという授記から始まります。ここで注意すべきなのは「仏である」ことではなく「仏になれる」ということが認められたということであり、鎌田茂雄氏は「授記は将来の可能性を保証したのであって、今、現に仏になっているのではない」と述べています(鎌田茂雄『法華経を読む』112ページ、講談社学術文庫、1994年)。この後、迦旃延、目連、須菩提にも授記が与えられますが、同様にここでも即身成仏は説かれていません。
この授記品がまさにそうなのですが、釈迦は迦葉や須菩提たちに授記を与えた際、必ず「仏になった時の名前」と「その時の国土」と「その仏の寿命と時間」について答えています。つまり声聞や縁覚の弟子たちの成仏が法華経に説かれていると言っても、それは遥か未来世において仏になることが約束されただけのことで、即身成仏は法華経には説かれていないのです。
ちなみに授記品のサンスクリット原典の本来のタイトルは「予言」(vyākaraṇa)で、迦葉らが未来世において成仏する「予言」を述べたことを示しています。
7、化城喩品
・法華経中、初めてここで初期仏教の概念である四聖諦と十二因縁について書かれています。この品では16人の王子が描かれますが、このうち9人目の王子が阿弥陀如来、16番目が釈迦になります(したがって阿弥陀如来は法華経では否定されていません)。四聖諦が説かれた2万年後に法華経一仏乗の教えはそれを超えたところにあることを主張し、それを探すために化城宝処の譬喩を説くのですが、かつての四聖諦や十二因縁の教えが化城であり、法華一仏乗に至らせるための方便であるという考えは非常に大乗的な発想です。
8、五百弟子受記品
・この品では富楼那を初めとする1,200人の声聞が仏になれるという約束を与えられます。1,200人の弟子たちのうち最初に500人に未来世に仏になれる記別が与えられ、その感謝の思いを弟子たちが「衣裏珠の喩え」を説いて表します。
9、授学無学人記品
・ここで阿南と羅睺羅が立ち上がり、釈迦に「仏になれることを認めてほしい」旨を伝えます。そしてそれを聞いた2,000人の聴衆も同じ気持ちであることを表します。阿南は釈迦の従兄弟で提婆達多の弟にあたり、羅睺羅は釈迦の実の子にあたります。釈迦は阿南にも羅睺羅にも授記を与え、未来世において仏になれる約束をします。やはりここでも即身成仏ではありません。
続いて2,000人の聴衆にも釈迦は未来世において修行を続けるならば、仏になれる約束をします。
10、法師品
・この品のタイトルの「法師」とはサンスクリット原典ではdharma-bhāṇaka、すなわち「教えを説く者」の意味です。現在の日本語で言えば「法師」は僧侶または出家者を意味しますが、法華経では異なることになります。
法師品で注目される点は「法華経が全ての世の中に受け入れられず、また全ての世の中から信ぜられていない」という一節です。事実鳩摩羅什漢訳でも「如来現在。猶多怨嫉。況滅度後」と書かれています。このことは勧持品と同様に、当時の法華経を生み出した教団あるいは宗派が弱小で様々な迫害に晒されていたことを示唆していることになります。
11、見宝塔品
前半部の宝塔の出現は、釈迦の永遠化に目的があります。初期仏教、大パーリ・ニッバーナ経(原始涅槃経)で釈迦は老い衰え、死に行く存在として描かれます。そこでは釈迦もまた一人の人間であり、残された者たちは自身を島として生きることを説きます。
しかし大乗は異なります。大乗の発想は「ブッダの在世中の人々はブッダから授記を受けることができるとしても、ブッダの入滅後の人々はどうするのかという問題が生じた」(岩本裕)ことにより、法華経見宝塔品で永遠の法を説く釈迦の姿を文学的に創作して永遠化しようとしたことにその本意があろうかと思います。
12、提婆達多品
・提婆達多品は本来単独の章節ではなく、後から挿入され、見宝塔品の後半とされていました。提婆達多は釈迦の従兄弟に当たり、反逆者として描かれますが、本来は釈迦の晩年に教団の改革案を提示して厳格に教団を規制しようとした人物でした。提婆達多の改革案は教団を本来の姿に立ち返らせようとしたもので、事実、5世紀の法顕、7世紀の玄奘によって、そのインド旅行記において東インドに提婆達多派の教団が存在していたことを記録しています。文献によれば「特殊な礼拝形式を保ち特殊な戒律を遵法していた」(岩本裕)と言われます。提婆達多がこの品で未来世において成仏の記別を受けているのは、法華経成立が提婆達多派の教団と密接な間柄にあった、あるいは提婆達多派の教団との何らかの和解が成立した可能性があります。
・後半では竜王の娘、竜女の成仏が説かれます。これを女人成仏、また即身成仏の根拠とされますが、そもそも竜女は「変成男子」して(サンスクリット原典では「男性器が生えてきて」という直接的な表現です)、南方の無垢世界に赴き、そこで成仏する姿が神通力によって会座の大衆に見せられます。したがって提婆達多も竜女もここで即身成仏をしたことにはならないのです。
13、勧持品
ここで薬王菩薩と200万人の求法者たちは釈迦の入滅後の法華経の流布について釈迦に誓います。ここでは法華経を保つものがいかなる迫害にあうのかという点が強調され、文字通り「不惜身命」命を賭けて法華経を弘めることが求められることになります。なお勧持品でこの法華経を宣揚する方法は「奉持」「読誦」「説」「書写」「種種供養」が説かれています。
14、安楽行品
・ここでいう「安楽な生活」とは、釈迦の入滅後の時世、教えがまさに滅びようとする折に法華経を弘めようとする求法者たちの送るべき生活を指し、そのための条件を仏が説くことになります。それは4つあり、「四安楽行」と呼ばれます。
①行動と交際の範囲を厳守せよ。
②他人を非難せず、敵視せず、また教義の論争をしてはならない。
③依怙贔屓をしてはならない。
④他者に信仰をさせ、悟りを達成し得るように成熟させるべし。
例えば安楽行品では「婦女子に歓心を買うようなことはしてはならない」「見習いの若い尼僧や男女と懇意にしてはならない」「国王や王子、大臣等の為政者と交わってはならない」等が説かれていきます。したがって政治に仏教者が関わることは法華経安楽行品の精神に反する行為ということになります。
15、従地湧出品
ここでは大地の割れ目から無数の求法者が現れる奇跡が現出されます。見宝塔品では宝塔が出現し、その内部に法華経を証明する多宝如来が現れますが、この従地湧出品では釈迦が具体的に「永遠の存在」であることを示す必要から、釈迦が過去世において教化した多数の求法者を出すことになります。
この菩薩たちの4人の上首が「地涌の菩薩」の上首たる「四菩薩」になります。彼らの名前は以下の4人です。
①ヴィシシュタ=チャーリトゥラ
Viśiṣṭhacāritra、「優れた所行の者」
②アナンタ=チャーリトゥラ
Anantacāritra、「無限の所行の者」
③ヴィシュッダ=チャーリトゥラ
Viśuddhacāritra、「清浄な所行の者」
④スプラティシュティタ=チャーリトゥラ
Supratiṣṭhitacāritra、「確固たる所行の者」
16、如来寿量品
・前章の従地湧出品で、マイトレーヤ(弥勒)は釈迦に疑問を投げかけます。それに対して釈迦は会衆に「汝らよ、まさに如来の言葉を信じよ」と3回投げかけ、それに応えて3回答える形をとっています。その後、如来の寿命の長さが説かれ、「方便現涅槃」つまり方便として涅槃を現じて法を説き続ける釈迦の姿が永遠化・理想化されていきます。ここで説かれるのは「良医の喩え」です。
17、分別功徳品
・仏の寿命が永遠であるという説法を聞いた福徳を区分して説きます。仏の現在及び入滅後の法華経信者を5種類に分け、修行の段階を4つとしていて教学的には「四信五品」と称して重要な意義を持たせていますが、岩本裕氏は「インド学の立場から見たとき、この章は重要な思想も文化的事実も明らかにしていない」としています。
・ここではまた教団に対する供養がもはや必要ないことが最後に説かれます。分別功徳品を重視するなら、教団への供養や財務は必要ないことになります(「悪世末法時。能持是経者。即為已如上。具足諸供養」)。分別功徳品によるなら、塔を建てたり、僧坊を建てたり、供養したりしなくても、法華経の経巻を供養すれば良いことが説かれています。
18、随喜功徳品
・この章は前章の続きで、やはり「仏の寿命が永遠である」ことを聞いた人の福徳が語られます。ここでは法華経を広める者の功徳が語られていきますが「五十転伝」はここで書かれています。また法華経を「如説修行」することも、この品で書かれています。それなのに分別功徳品や随喜功徳品が創価学会や大石寺信徒には読まれていないのは、奇妙なことです。
19、法師功徳品
・ここでいう「法師」は法師品と同じく、サンスクリット原典ではdharma-bhāṇaka、すなわち「教えを説く者」の意味です。すなわち法華経の5種の修行をする者のことです。ところで5種の修行とは①受持する②読む③誦える④解説する⑤書写することです。果たして創価学会信徒は法華経全編をきちんと読み、誦えて、書写をしているのでしょうか? ちなみに日蓮は弘安4年の『地引御書』で大師講の弟子たちに法華経全編の書写をさせていることが書かれています。
なお5つの修行を実践する者を「五種法師」と言います。この「五種法師」の実践を行う功徳として「六根清浄」が説かれます。
20、常不軽菩薩品
・実は鳩摩羅什の漢訳タイトル「常不軽」はサンスクリット原典と全く違う訳語を当てています。岩本裕氏によるならこの章のタイトルは"Sadāparibhūta"すなわち「常に(サダー)軽蔑された男」と訳すべきです。ところが鳩摩羅什は否定辞の「不」を訳出して「常に軽蔑しない男」と訳していますから、彼は「Sadāparibhūta」を「sadā-aparibhūta」と解釈したことが考えられます。ところが「paribhūta」は過去分詞形であって受動態になりますから、「軽蔑された」という意味になっても、語頭に否定辞のa-が付加されても、それは「軽蔑されない」という意味で「他人を軽蔑しない」という意味にはなりません。つまり受動的な言葉を能動的に訳したところに鳩摩羅什の拡大解釈、曲解、また宗教的な立場があることが推察されます。
21、如来神力品
日蓮や天台における解釈ではこの神力品第21を「別付嘱」、嘱累品第22を「総付嘱」と考えます。地涌の菩薩である上行らに対して付嘱されたのが神力品であり、それ以外の会座の大衆に付嘱したのが嘱累品だったと言う理解なのですが、神力品を読むと実は上行菩薩に対して付嘱ができていなかったことがわかります。天台智顗の別付嘱の解釈は文字面を歪曲したものなのです。「爾時仏告上行等菩薩大衆、諸仏神力如是無量無辺、不可思議、若我以是神力、於無量無辺百千万億阿僧祇劫、為嘱累故、説此経功徳、猶不能尽」とあるように「付嘱のためにこの経の功徳を説いたけれど、なお言い尽くすことができなかった」ことを釈迦が認めているのです(「猶不能尽」)。また「別付嘱」と言いながら釈迦がここで語りかけているのは「上行等菩薩大衆」であり、上行1人のみに語りかけてはいないのです。
「如来神力品で別付嘱はされなかった」
そして本来、付嘱されなかった法華経の広宣流布を次章の薬王品で「宿王華菩薩」に付嘱されますが、中国仏教はこのことを改竄し、この神力品と薬王品の間に無理矢理に最終章の嘱累品を割り込ませて、強引に法華経の儀式を一度閉幕させてしまいました。
22、嘱累品
・本来の順番は一番最後に置かれたものです。天台教学ではここで宝塔が閉じて一度会座が終了したとしますが、続く薬王品の最後にはきちんと宝塔中から多宝如来が宿王華菩薩を讃嘆しており、嘱累品を最後に置かずに薬王品の前に配置することが改竄ということがわかります。
・嘱累品がこの位置に意図に置かれることで、天台教義では「二処三会」という解釈がされるようになります。22章の嘱累品で一度虚空会の儀式は閉幕されたという説から法華経の構成を「前霊鷲山会」「虚空会」「後霊鷲山会」に分ける考え方です。しかし上に述べたように第23章の薬王品は虚空の宝塔中から多宝が語りかけるラストシーンが描かれていて、嘱累品後も虚空会の儀式が終わっていないことから、嘱累品は本来第28章の最終章なのであって、如来神力品の後に無理矢理に順番を変えるのは誤りであることがわかります。
「二処三会は存在しない」
「嘱累品を元の位置に戻すと見えてくるストーリー」
23、薬王菩薩本事品
・薬王品で初めて「広宣流布」の言葉が出てきます。「広宣流布」という語はこの薬王品以外に出てきません。薬王品で未来に「広宣流布」を託されるのは「宿王華菩薩」であり、「上行菩薩」ではありません。宿王華菩薩への付嘱を無理矢理に上行付嘱に歪曲したのは天台の捃拾説に過ぎず、日蓮は『観心本尊抄』で智顗の捃拾説に依拠して上行付嘱と解釈したことを認めています。
・また薬王品では化城喩品に続いて「阿弥陀如来」が出てきます。「若如来滅後。後五百歳中。若有女人。聞是経典。如説修行。於此命終。即往安楽世界阿弥陀仏。」とありますので、法華経を「如説修行」(日蓮の『如説修行抄』はこの部分から採ったものです)する女性の功徳は、命が終わった後に即座に阿弥陀仏の安楽世界に往生することが法華経に説かれていることになります。比叡山の恵心僧都源信が『往生要集』で強調したように、実は法華経と阿弥陀仏の教えは何ら矛盾するものではないのです。
「法華経薬王品における臨終往生」
「薬王品・宿王華付属の曲解」
24、妙音菩薩品
・妙音菩薩(ガドガダ・スヴァラ)が登場し、法華経の説法の意義を説く品です。ちなみにガドガダ・スヴァラ "Gadgada-svara" は本来サンスクリットで「どもる人」の意味ですが、文中どこにも「どもる」ことの意義には触れられていない。またこれを鳩摩羅什は「妙音」と訳しましたが、この根拠も不明瞭です。
25、観世音菩薩普門品
・別名「観音経」です。ここでは観世音菩薩(アヴァローキテーシュヴァラ)の名前を唱えることで様々な神通力を得たり、苦悩から解き放たれたりすることが説かれます。「還著於本人」が説かれるのはこの観音経でして、観音称名をして初めてこれらの功徳が得られると説かれています。どこにも題目を唱えることは説かれていません。ちなみに法華経を根本経典とする曹洞宗では如来寿量品とこの観世音菩薩普門品を読誦することが知られています。創価学会や大石寺系教団は観音経に書かれる功徳ばかり強調しますが、観音経を読誦することはありません。
「観世音菩薩のこと」
26、陀羅尼品
・陀羅尼とは呪文のことです。ここでは薬王菩薩(バイシャジャ・ラージャ)や勇施菩薩(プラダーナ・シューラー)、十羅刹女(ラークシャーシー)や鬼子母神(ハーリーティー)たちが法華経を説くものを守護するための呪文を説きます。
27、妙荘厳王本事品
・妙荘厳王とはシュバ・ヴューハ "Śubhavyūha" すなわち「浄らかに荘厳された者」の意味で、冒頭の如来の世界が同一であることから、本来第24章の妙音菩薩品と直結されるべき品です。家庭内で仏教を持つことの難しさ、そして仏教に巡りあうことの難しさを喩えた「一眼の亀」の比喩が出てきます。また鳩摩羅什の漢訳では後半の一部をカットして短くしています。
28、普賢菩薩勧発品
「『作来而去』について」
今回は少し長くなってしまいました。しかし法華経を根本とすると言う割に創価学会や大石寺の信徒は、ほとんど法華経を読むことがありません。彼らは本当に法華経の精神に依拠していると言えるのでしょうか。甚だ疑問が残るところであります。