いつもみなさん、ありがとうございます。
お気づきの方もいらっしゃると思いますが、私はブログ開設当初、またTwitterアカウント開設当初は散々に悪口雑言を受けてきました。
私としては別に批判されても構いませんし、むしろ真摯な文献的な検証なら受け入れたいと考えていました。元より私には失うものは何もなく、家族の全てを亡くした私には何も怖いものがなかったのです。
ところが生産的な批判よりも、悪口雑言、汚い口調で罵られることが本当に多かったです。それらはほぼ全て創価学会信者、また日蓮正宗信者です。顕正会や正信会の信者は元々の母数がそんなにいないのか、さして来なかったように記憶しています。
まあ……広宣部時代から、さんざんに対論をしてきたことの繰り返しでしたから、日蓮正宗や創価学会信者が何を言うかなんて、もう相手が口を開く前からわかっていました。広宣部というところは「相手がこう切り出したら、こう切り返す」というパターンを多数暗唱して練習し、即座に切り返す実践練習をする集団だったのです。相手が何を言いたいのか、何を言われたら困るのか、どこを突っ込まれたら閉口するのか、そういうことを実際に学んできたのですから、別に辛いとも思いませんでした。
それでもTwitterでも過去の現場でも散々に相手を論破してきた自身としては、Twitterで色々議論になると「またやっちゃったなぁ」と思うことしきりでした。私はてっきりどんどん嫌われていくと思っていました。
今や、多くの方が私の味方となり、ブログ読者となって応援してくださる方がいることは本当にありがたいことです。
2000年代に広宣部の活動は下火になり、対論や教義の学習は行われなくなります。その理由が何かは明確にはわかりませんが、少なからず広宣部出身者たちが退会する事案があったことは私が見てきた事実です。
この頃から、組織の教学力は目に見えて衰退します。教学試験は薄っぺらになり、内容がほとんどなくなります。1編の御書さえ全編を試験範囲にせず、わずかに2〜3ページ、場合によっては数行程度しか試験範囲に出しません。これで日蓮遺文の何がわかるのでしょう。
また基礎教学としてはせいぜい「十界」があるくらい。今や「宗教の五綱」も「五重相対」も全然教えません。「五時八教」さえも知らない信徒が大半です。彼らは日蓮の何を学んでいるのでしょうか? 彼らの多くは日寛の『文段』も『六巻抄』も知りません。「十大部」が具体的に何かさえわからないのです。
近年さらに創価学会や日蓮正宗の内向きな教学体質が強まりつつあります。創価学会信者は機関誌『大百蓮華』掲載の池田大作氏の『御義口伝』講義を有り難がり、偽書説さえも認められず、対外的には全く通用しない言説を日蓮思想だと勘違いしたまま吹聴する有様です。また日蓮正宗信者は近年、ますます法主や戒壇本尊、血脈の絶対性ばかりを何の根拠もなく信じ込むことが信仰だとする、奇妙な原理主義者が増えています。
創価学会信徒に最近増えてきた傾向ですが、彼らは教義上の問題に関して突っ込まれても、何の痛痒も感じていないことがあります。あまりにお粗末な教義になってしまい、考えない信徒ばかりになってしまったのでしょう。
その代わりに選挙の得票数の減少や組織の衰退などを言うと途端に逆上してくる人が出てきました。選挙ばかりの信仰になってしまった弊害なのかもしれません。
学びがなければ考えることができなくなります。今の信者さんたちの多くが考えることができず、レッテル貼りと教義の現代的な換言が仏教だと勘違いしているのかもしれませんね。