いつもみなさん、ありがとうございます。
さて私はこんなブログを立ち上げて既に6年以上が経過しています。当初から私は「創価学会という組織が既に過去の遺物に成り果てており、既に歴史的役割を終焉している」と言う問題意識からブログを書いていたのです。
「ブログの趣旨を」
まあ、想定していたことではあったのですがね。
とはいえ、私は元広宣部メンバーであり、他宗派対策で言論活動をしてきたこともあり、嫌われることに慣れっこでした。むしろ私はかつては他宗派から非難を浴びることで返って使命感を燃え上がらせて活動するような狂信的な信者だったのですから。
それって昭和45年の言論問題から何も変わっていないのではないかと思うんですね。
「批判を受け入れる姿勢はあるか」
そのような考え方こそ非常識であり、だからこそ池田大作会長(当時)は昭和45年5月3日の本部総会で「受け入れるべきは冷静に受け入れ、改めるべきは、率直に改めていかなくてはならない」と発言したのでしょう。
それにも関わらず、他者の批判は受け入れない、他者の史料的検証も頭ごなしに否定することしかできない、都合の良いことだけを口にして、教団に都合の悪い史料は絶版にして信徒に見せない、信徒は限定され、偽作された教義や教団史を鵜呑みにして他者の批判を狂信的に否定する、そんな宗教組織の体質が現代においても如実に残っていることに唖然としてしまいます。
私は少なくとも創価大学在学中に、学生部から「常識豊かに布教活動を」とよく言われたものです。とかく熱心なあまりに非常識になりがちであり、そのような布教活動は返って「法を下げてしまう」と言われたものです。
強引な布教、非常識な活動はしてはならないと言われました。
まあ、そうは言っても、私も広宣部メンバーととしてかなり非常識な活動をしてきたので、自分の責任を棚上げにする気はありませんが。
一度冷静になってみて、自分たちの教義を振り返ってみればよいのです。
戒壇本尊は後世の偽作でしかありません。
上行菩薩への「別付嘱」とされる如来神力品では、上行菩薩への付嘱を「猶不能尽」として言い尽くせなかったと書いてあります。すなわち神力品は付嘱ができなかったことを書いている品であり、天台教学はそれを曲解しているのです。
大石寺にもかつて御影堂近くに「天王堂」「垂迹堂」が存在していました。小笠原慈聞氏の主張する教義は確かにかつて大石寺に存在したのです。それらの大石寺の伝統教義は戸田城聖時代の創価学会の侵食によって変容しました。
他にもいろんな事実が、このブログには書いてあります。
一つ一つ見ていけば、どれだけ教団が史実を上塗りし、糊塗してきたかがわかるでしょう。
その教団の虚偽の歴史にしがみついて生きるのか、その事実を知ってきちんと自身の過去を反省するのか、どちらが正しいのかということです。
批判を受け入れる姿勢とは本来そういうことであり、現実から目を背けずにありのままの事実を受け止めるということなのです。
それができない姿勢を、私は無謬主義とも原理主義とも狂信とも呼びたいと思います。