気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

如来神力品で別付嘱はされなかった。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて日蓮・天台系における法華経解釈では、法華経の解釈では如来神力品第21を「別付嘱」、嘱累品第22を「総付嘱」と考えます。
つまり地涌の菩薩である上行菩薩らに対して付嘱されたのが神力品であり、それ以外の会座の大衆に付嘱したのが嘱累品だったと言う理解です。
 
 
ところが、法華経如来神力品を読むと、実は上行菩薩に対して付嘱ができていなかったと書いたら、皆さんは驚かれるでしょうか。
具体的に法華経を読んでみましょう。画像は創価学会版の『妙法蓮華経並開結』(2002年、創価学会)から571〜572ページになります。
 
「爾時仏告上行等菩薩大衆、諸仏神力如是無量無辺、不可思議、若我以是神力、於無量無辺百千万億阿僧祇劫、為嘱累故、説此経功徳、猶不能尽」
 
簡単に訳しますと
 
「その時、仏は上行菩薩等の大衆に告げた。『諸仏の神力はこのように無量無辺、不可思議である。もしも私がこの神力をもって、無量無辺百千万億阿僧祇の劫において、付嘱のため故にこの経の功徳を説いても、なお言い尽くすことができなかった。』」

つまり「釈迦は上行菩薩等の大衆に付嘱するためにこの経の功徳を説いたが、言い尽くすことができなかった」としているのです。画像でも確認して頂ければと思いますが、きちんと「猶不能尽」と書かれています。
 
したがって如来神力品で上行菩薩に対する「別付嘱」がされたとする天台智顗の解釈は間違いということになります。
そもそも天台教学で法華経如来神力品は「別付嘱」としている筈なのに、釈迦が付嘱のために語りかけているのは「上行等菩薩大衆」です。上行菩薩のみに語りかけてはいないのです。
 
 
ところが、これが歪曲され、あたかも「上行菩薩に付嘱がされた」となり、そしてその後、無理矢理に最終章である筈の「嘱累品」が神力品の後の22章としてねじ込まれ、神力品から薬王品の宿王華への付嘱に至る流れが見えなくなっているのです。
 
 
「嘱累品を元の位置に戻すと見えてくるストーリー。」
 
 
本来の法華経のストーリーは以下のようになるでしょう。
 
如来寿量品(第16章)で「色香美味」の良薬を「今留在此」として残しておくことを宣言する。
 
如来神力品(第21章)では上行菩薩等の大衆に付嘱をしようとしたが「猶不能尽」で言い尽くすことができず、「以要言之」として法華経を読誦したり、書写したりして「如説修行」するように言い残す。
 
③本来なら22章である薬王品で、釈迦は宿王華菩薩に法華経を付嘱し、自分の滅後に「広宣流布」をするようにと宿王華に委任する。宝塔中の多宝如来も宿王華を讃嘆して薬王品が終わる。
 
なので、本来は28章(最終章)の嘱累品が強引に「22章」として割り込まされてしまい、本来のストーリーが見えなくなってしまっているのです。天台教学では総付嘱の嘱累品第22で宝塔が閉幕し、虚空会の儀式が終わったとしますが、薬王品を読めばきちんと多宝如来が「宝塔」の中から宿王華に語りかけているのが確認できます。つまり薬王品は付嘱の儀式の最後の部分なのであり、虚空会の儀式はまだ閉幕していないのです。

 
神力品での上行菩薩への付嘱が「猶不能尽」でできなかったのに、できたことに改竄されたこと。
そして神力品の後に無理矢理に嘱累品を持ってきて、強引に法華経の儀式を閉幕させ、宿王華付嘱をなかったことにしたこと。
これらが中国仏教における解釈だったということになります。本来の法華経で嘱累品は最終章なのですから。
そしてそれらの中国仏教の解釈や教判を基にして教説を展開してしまったのが、日蓮の時代的制約による限界だったということになるでしょう。