いつもみなさん、ありがとうございます。
簡単に訳しますと
「その時、仏は上行菩薩等の大衆に告げた。『諸仏の神力はこのように無量無辺、不可思議である。もしも私がこの神力をもって、無量無辺百千万億阿僧祇の劫において、付嘱のため故にこの経の功徳を説いても、なお言い尽くすことができなかった。』」
ところが、これが歪曲され、あたかも「上行菩薩に付嘱がされた」となり、そしてその後、無理矢理に最終章である筈の「嘱累品」が神力品の後の22章としてねじ込まれ、神力品から薬王品の宿王華への付嘱に至る流れが見えなくなっているのです。
「嘱累品を元の位置に戻すと見えてくるストーリー。」
本来の法華経のストーリーは以下のようになるでしょう。
①如来寿量品(第16章)で「色香美味」の良薬を「今留在此」として残しておくことを宣言する。
なので、本来は28章(最終章)の嘱累品が強引に「22章」として割り込まされてしまい、本来のストーリーが見えなくなってしまっているのです。天台教学では総付嘱の嘱累品第22で宝塔が閉幕し、虚空会の儀式が終わったとしますが、薬王品を読めばきちんと多宝如来が「宝塔」の中から宿王華に語りかけているのが確認できます。つまり薬王品は付嘱の儀式の最後の部分なのであり、虚空会の儀式はまだ閉幕していないのです。
そして神力品の後に無理矢理に嘱累品を持ってきて、強引に法華経の儀式を閉幕させ、宿王華付嘱をなかったことにしたこと。
これらが中国仏教における解釈だったということになります。本来の法華経で嘱累品は最終章なのですから。
そしてそれらの中国仏教の解釈や教判を基にして教説を展開してしまったのが、日蓮の時代的制約による限界だったということになるでしょう。