気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

嘱累品を元の位置に戻すと見えて来るストーリー。




いつもみなさん、ありがとうございます。



さて、嘱累品第22は本来サンスクリット原典では最終章でした。実際、竺法護訳の正法華でも嘱累品は最終章に配置されています。
嘱累品が薬王菩薩本事品第23の前に無理矢理に嵌め込まれてしまうと、法華経の本来のストーリーが見えなくなってしまうんですね。
あるいは、鳩摩羅什漢訳の妙法華では意図的に順番を変え、宿王華所伝の法華広宣流布を無理矢理に捃拾説で上行所伝に歪曲したのではないかと考えています。


嘱累品が最終章である理由は、

1、サンスクリット原典でも竺法護訳の正法華でも嘱累品は最終章である。

2、嘱累品で虚空会の儀式が終わり、宝塔が閉じた筈なのに、次の薬王品ではきちんと「多宝如来。於宝塔中。」という文章があるので、宝塔の儀式が実は薬王品以降も閉幕していないことが文章からわかる。


この辺の事情を説明するために、法華経の従地湧出品第15から概略を説明してみましょう。


【従地湧出品第15】
他方の国土から集まった諸菩薩たちが冒頭で「私たちが仏の滅後に法華経を広めます」と決意を述べるが、釈迦はそれに対して「止善男子。不須汝等。護持此経。」として彼らの要求を退ける。その後、大地の底から地涌の菩薩らを招集する。会衆は「釈迦がどのようにこの諸菩薩らを教化したのか」と尋ねる。


如来寿量品第16】
会衆が釈迦に三度尋ね、さらに再び尋ねた後に釈迦が仏として成道してから無量の時間が経過していることを告白する。そして法華経の教えを子どもたちに残すために色香美味の良薬を「今留在此」とし、置いていくことを宣言する。


【分別功徳品〜常不軽菩薩品まではとりあえず割愛します】


如来神力品第21】
上行菩薩等大衆に嘱累をしようと分別功徳品からずーっと法華経の功徳を説いてきたが、言い尽くすことが出来なかったとして「猶不能盡」と言い残す。


【薬王菩薩本事品第23】
従地湧出品で会衆に付嘱せず、如来寿量品で「今留在此」とされた法華経を、宿王華菩薩に付嘱し、釈迦は初めてこの時に「自分の滅後に広宣流布をするように」と宿王華に委任する。宝塔中の多宝如来もこれを聞いて宿王華を讃嘆し「多宝如来。於宝塔中。讃宿王華菩薩言。善哉善哉。宿王華。汝成就。不可思議功徳。乃能問。釈迦牟尼仏。如此之事。利益無量。一切衆生。」として薬王品が閉幕する。


……とこうなります。
つまり鳩摩羅什漢訳の妙法蓮華経だと神力品と薬王品との間に無理矢理に嘱累品が「第22章」として嵌め込まれ、宿王華菩薩への付属が「捃拾」として付録扱いになってしまいます。
ところが、嘱累品を最終章として本来の順番に戻してやることで、従地湧出品から薬王菩薩本事品に繋がる付嘱のストーリーが明確に見えるようになります。事実、薬王品の末尾にはきちんと多宝如来が宝塔中から宿王華への賛辞を述べていまして、虚空会の儀式も閉幕していないし、宝塔も閉じていないのは文章からも明らかです。



つまり日蓮法華経解釈における、法華経の上行所伝の説は、鳩摩羅什漢訳の妙法蓮華経の順番と天台智顗の捃拾説による歪曲とをそのままに受け取ってしまった誤解であったということです。
ただこれにより日蓮を無節操に非難するのは若干当たらない気もします。確かに当時の時代背景もありますし、歴史的文脈から当時の日本の仏教がいかに中国仏教を引きずっていたのかがよくわかるというものです。



大切なことは、そのような史料的検討ができる現代にあっては、日蓮の天台智顗の捃拾説による法華経解釈が間違いであったことは明瞭な事実なのであって、現代の私たちは、ではその事実を知った上でどのように信仰を捉えていくのかということを問われているのだということです。
教団の提示するドグマに従って、どこかに真実の法があることを願う心もわからなくはありませんが、本来、龍樹の考える大乗の教えとは、そのような実在性への憧憬を否定するところから始まったのだと私は考えています。




追記
以下の記事が参考になろうかと思います。本来嘱累品は法華経の最終章なのであり、薬王品の前に変えられていること自体が不自然なことです。

「二処三会は存在しない」

「本来の法華経の構成」