気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

本来の釈迦の教説とは。

 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
創価学会日蓮正宗は「成仏」という語を使います。「成仏」「即身成仏」することが仏教の究極で、創価学会はそれを「人間革命」とかよくわからない別の言葉に置き換えて設定するのがやたら好きです。
けれど私は別に成仏などしなくてよいと思っています。
 
 
「成仏などしなくてもいい」
 
 
『スッタニパータ』で「ブッダ」は「目覚めた人」のことで、四聖諦を悟り、一切の認識が六処と十二因縁でしかないことに気づいた人が「目覚めた人」すなわち「ブッダ」になります。
 
 
「普通の人間としてのブッダ
 
 
なぜ殊更に「四聖諦に目覚めること」を「ブッダ性」にまで拡大解釈して、「仏性」を人間性の尊厳の根幹にまで引き上げるのか、私には理解できません。
別に仏教を無理矢理に解釈しなくても人間性の尊厳は語れるでしょうし、そもそも初期仏典におけるブッダは普通の人でしかないのです。
仏性とか生命の尊厳とかを説いたものが仏教なのではありません。四聖諦と六処と十二因縁を説いて執着から離れることを説いたのが仏教です。
 
 
そんなわけで、私は成仏しなくても全く困らないですし、成仏することが人生の目的だとは全く思いません。
成仏する必要などありません。そんなことを釈迦は説いていません。
 
 
それが大乗仏教以降になると、釈迦の直説ではない仏典が数多く創作され、永遠の仏、永遠の釈迦等が強調されるようになります。大乗仏教諸派が数多くの仏典を創作したことは釈迦を永遠化する意図があり、そこに悪意はなく、彼らにはある種、崇高な使命感さえあったのだろうと思います。
ところが、釈迦の永遠化、陀羅尼の読誦等によって、徐々に本来の釈迦の教説は見失われていきます。天台智顗は漢訳仏典の字面から、勝手に経典の創作年代を釈迦在世の時代に当て嵌めるという、今の文献学的知見から見れば評価に値しない教判を設定します。それが五時八教判と呼ばれるものです。
 
 
例えば法華経序品に「無量義処三昧」と言う語があるので、法華経の前には無量義経が説かれた筈だとか、そういう按配です。字面だけで創作年代を釈迦在世の時代に当て嵌めていく手法は今では通用しないでしょう。
ところが、日本は中国仏教の影響をもろに受けてしまいました。鎌倉仏教と呼ばれるものも、当時の時代背景と密接に結びついている気はしますが、比叡山の教義は天台智顗の教理下にあり、日蓮も少なからずその影響を受けました。だからこそ日蓮は薬王品以降を捃拾扱い(落穂拾い、付録扱い)にしたり、神力品を無理矢理に上行付嘱の別付嘱としたりするのです。
 
 
そもそも教判というものは、自身で仏教を説くものが必ず個々に設定するものです。空海の『秘蔵宝鑰』や『十住心論』では天台法華経の立場は第8住心で、華厳経がその上の第9住心、秘密荘厳心の密教が第10住心になります。
 
 
後世の歴史によって拡大され、変容した仏教を私たちは漢訳仏典として読むことができるでしょう。
でもそれは果たして本当に釈迦の教説と呼べるのでしょうか?
個々の信仰者が自身で知見を深め、求めていく心を起こすのが正しい信仰のあり方であると私は考えています。
何か特別な本尊を持ったから、幸せになれるとか、特別な相伝から離れたから仏罰がおりる等の考えは仏教とは到底言えないと私は思います。