いつもみなさん、ありがとうございます。
創価学会の退会組には、そう言う方が多いように思います。
日寛教学を換骨奪胎し、「八重相対」等、訳のわからない論を唱える波田地克利氏がまさにその好例です。
彼らのグループは「自活グループ」等に四分五裂し、原型を留めていません。
要するに「自分は間違えていました」と認めれば良いのに、それが彼らはできていないだけなのです。彼らは自分たちが「間違っていた」ことを認められず、日蓮教義にも池田大作にも批判的検証ができません。自身の中にドグマを抱え込んでしまい、そしてそのことを曝け出すことができなくなってしまっているんですね。
私には、かつての自分たちの信じていた教義前提を検証する真摯な姿勢が彼らの多くに欠如しているように思えてなりません。
「仏教の本質は生命」ではありません。
「法華経は生命を説いた経典」なんて誤りです。
中国仏教における天台智顗の五時八教判は現代の文献学ではもはや無効です。
いくら仏教以外の文献を読んだところで、仏教には何の関係もありません。
そう言った日蓮の本来の思想、純粋に文献を読めば自ずと導かれる結論から目を背けて、今までの自分たちのどこかに正しさがある筈だと自身の正統性を担保しようとしたり、無理矢理に切り貼り教義を主張したりします。
そんなものは単なる「誤り」なのです。
今すべきことは、そんなものを信じてきた自分たちが誤りであったと言う明確な事実を認めることなのであって、そのことを真摯に認めることができないが故に、醜い自己弁解の姿を露呈してしまうのです。そして彼らは教義的にいつか何も言えなくなってしまうでしょう。事実そういうブログが少なくないのではないでしょうか。
そのような姿勢は元鞘の大石寺系教団、創価学会や日蓮正宗、顕正会や正信会を見ればわかることです。過去に目を背け、史実を無視して認めることが出来ず、新しい言葉を教義に貼り付け、さも正統性が自分たちにあるように見せかけています。批判した自分たちが批判対象の教団と同じロジックになってしまうのは、見ていて滑稽ですらあります。