気楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆

創価学会の元非活メンバー(現在は退会済み)による語り

普通の人間としてのブッダ。

 
 
 
 
 
いつもみなさん、ありがとうございます。
 
 
 
さて『スッタニパータ』の386節には次のような文があります。
 
 
「修行僧は時ならぬのに歩き廻るな。定められたときに、托鉢のために村に行け。時ならぬのに出て歩くならば、執著に縛られるからである。それ故に諸々の〈目ざめた人々〉は時ならぬのに出て歩くことはない。」
中村元訳『ブッダのことば』【スッタニパータ】80ページ、岩波文庫1984年)

 
ここで「目覚めた人々」とはブッダ(buddhā)で複数形です。『スッタニパータ』では後世に「仏」と訳される「ブッダ」の概念が今と全然違うことがわかるかと思います。
訳者の中村元氏の註を見てみましょう。
 
 
「ここで「諸々の目ざめた人々は……」(buddhā, 複数)というが、その原語は「ブッダ」である。それは、過去・現在・未来の三世の諸仏というようなものを考えていたのではなくて、「夜間に外を出歩いてよいか、どうか」ということが問題とされるような普通の人間としての賢者を考えていたのである。仏教が最初に説かれたときには、後世の仏教徒が考えたような「仏」を問題としていたのではない。思慮ある人、求道者としてのブッダを考えていただけなのである。この箇所の前後の関係から見ると、ブッダ(buddha)とビク(bhikkhu)とは、同義語なのである。両者が分離する以前の段階を示している。また求道者としての bodhisattva をブッダから区別したのは、後代の思想的所産なのである。いわゆる〈仏教学〉なるものを捨ててかからなければ、『スッタニパータ』を理解することはできない。」
(同326ページ)

 
どうでしょうか。釈迦が『スッタニパータ』で語った「ブッダ」の概念は、後世に生まれる北伝仏教の仏や仏性の概念とは全く違います。だからこそ中村元氏は buddha を「目ざめた人」と訳しているのです。
『スッタニパータ』は執着する人間の心を目ざめさせ、執着すること、妄執から離れることを教えたものです。それ故に「偉大な仏の法が存在する」とか「戒壇本尊が正しい」とか「仏とは生命である」とか、何か正しい教えが常住するように考え、その教えに固執する人々は、『スッタニパータ』の釈迦の教えから見れば、「執着に囚われた人間」に過ぎないことになろうかと思います。
釈迦の教えとは、そのような執着から離れることを説いたものなのだと私は思います。