いつもみなさん、ありがとうございます。
さて今回は『御義口伝』が後世の偽作でしかない証拠を列挙してみたいと思います。
・『御義口伝』の日蓮日興や上古の時代の写本は全く存在しない。
・『御義口伝』の大石寺写本は上巻のみの写本で、下巻のみの写本が伝わる要法寺のものとセットになる。大石寺写本は年代不詳。京都要法寺の写本は元亀2年(1571年)のもので、八品派日経の写本よりもさらに32年後のもので、日蓮滅後289年のものである。
・『御義口伝』には「弘安元年正月一日」の日付があるが、弘安への改元は1278年2月29日であり、本来は「弘安元年」ではなく「建治4年」1月1日である。天皇の践祚に正確に則って元号を記した日興が、元号を書き間違えるのは普通に考えてあり得ない。
・日興ら六老僧の文献に『御義口伝』や『御講聞書』が行われたという記録は存在しない。
・『御義口伝』は弘安元年の講述とされるが、末文に弘安5年選定の筈の「六老僧」の記述が存在しており、矛盾する。六老僧選定の事実は弘安5年の『宗祖御遷化記録』で日興真蹟で記録されている。
・『御義口伝』最古の引用は明応元年(1492年)7月(日蓮滅後210年)に著された一致派日像門流の円明院日澄の『法華啓運抄』である(執行海秀『日蓮教学上に於ける御義口伝の地位』印度学仏教学研究3巻1号)。つまり日蓮死後200年以上もの間、誰一人として『御義口伝』について言及をしていないことになる。
・弘安期に日蓮が『御義口伝』や『御講聞書』に類するような講義をした記録は全く存在しない。
・上記の写本や引用から見れば、『御義口伝』は、日蓮死後200年近く言及もされない、謎の文書であり、200年〜300年後に突如出てくる文献に過ぎない。
・日興門流における最古の引用は、永禄元年(1558年)12月、京都要法寺19世日辰の『負薪記』が最初である。
……どうでしょうか? これでも『御義口伝』が日蓮の述作と呼べるでしょうか?
日蓮の死後200年以上も誰にも言及されず、突如数百年後に現れ、しかもそれは日興の筆録である筈なのになぜか日像門流や八品派の日隆門流にも伝わっている。大石寺と要法寺の写本は八品派の写本よりも後世のもの。日蓮が死後に刊行された文献がなぜか引用されて、日蓮が講説したことになっている……。
これでも果たして『御義口伝』が日蓮の述作と呼べるでしょうか?